再生への旅

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zoom RSS 無宗教葬儀時代へ?!

<<   作成日時 : 2010/06/21 15:11   >>

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あつてなきが如くに父の日なりけり  玉宗

先日、何気なくテレビを観ていたら「無宗教葬儀」のテーマの番組が放映されていた。
特に都会では、宗教抜き(正確には宗派抜き・聖職者抜き)の葬儀が注目されるようになっているという。「直葬」に至っては葬儀と言う手間を通さず火葬に付し、散骨なり、納骨をして済ますものなのだろう。
 
驚いたことに、番組には「無宗教葬儀コーディネーター」なる人物が登場したことだ。「割安な」葬儀費用プランには勿論、お坊さんへの布施は入っていなかった。各種祭壇から諸々の葬儀社の割安サービスの紹介。そして、墓相から墓地購入の秘訣までをチェックしてくれていた。勿論、肩書を持っているからには何がしかの報酬を貰っているのだろう。

番組を観た範囲では、「何故、葬儀に聖職者は必要ないのか?」というような本質的解釈と解答は用意されていなかったようだ。もしかしたらそれは云うまでもないこととして予めカットされていたものか。要するに葬儀費用の中でも布施は高額な割合を占め、それは必要不可欠のものではないと認知された上での割安サービスということなのか。

「形」は様々であるにしろ、死者を弔うという遺された者たちの心の反映であることに、改革者も古典派も大きな差異はないのだろう。供養とか宗教心という言葉を使わなくても、古典的儀式を経なくても死者を「あの世」へ送ることはできるのだ、という社会的通念が浸透しているらしい。裏返して云えば、お坊さんは「葬儀」での信用を失くしてしまったのだろう。

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遥より朝が来てをり不如帰  玉宗


お釈迦様は「葬儀」を生業とはしていなかった。「葬儀」は本来お坊さんの専売特許ではなかった。神国日本に於いて「死者・忌なる者」の「弔いの儀式・供養」をお坊さんが司ることになったのはいつの頃からなのか、詳らかにしないが、当初時代の要請と、それに応えた側には共に真摯な姿勢があった筈である。

世の中にはお坊さんと云えば「葬儀・死者・陰・忌」の領域を任せられた者という常識があるようだが、お釈迦様は生きて悩める者の為に法を説き、共に悩み、解決の道を歩んだのである。それは当に「生きる者の為」の生き方であろう。煩悩に振り回されずに生きるための教え、実践。本来仏教はそちらの方に比重が置かれている。

その線上で云えば、「葬儀」もまた死者の為の行事というより遺された者達「遺族という生者」のためのものでもある。親族の「死」という事実から何を学んで生きて行かねばならないか、それをお坊さんは説かなければならないし、遺族も又、故人の「あの世」や遺族の「果報」ばかりを期待せず、遺された自分たちがこの世に再び力を得て、生きてゆく為の教えと方便に耳を貸し、聖職者に問わなければなない。

「無宗教」「無宗教葬儀」「お寺離れ」等に見られる精神的ベースには金銭的価値観でしか物事を判断できなくなった現代人の「無宗教ぶり」が窺われて哀れですらある。「割安な葬儀」を求めるのはよいとしても、「割安な宗教心」などというものはあり得ないものと肝に銘じるべきではないか。勿論、私はこれを一般人だけではなく、聖職者の側にも同量の声を挙げて指摘しておきたい。


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先ず今日の暑さを見舞ひ通夜説教  玉宗

現代「宗教」「宗教者」という言葉には、聖域を自己弁護に利用し社会的事件を巻き起こした者たちが纏っていた異様な世界としてのイメージとともに、人並以上の生活をして、どう弁解しても聖職者らしからぬ者たちが醸し出したやくざな世界のイメージがあるのだろう。

社会が「無宗教」や「無宗教葬儀」で徒党を組み、この世を渡ることを聖職者といえども如何ともする事は出来ないのだが、古き良きものを捨て去った後に、又違ったタブーが登場するとも限らない。それは「拝金至上主義」であるかもしれないし、「ごね得至上主義」の仮面を被っているかもしれない。

弱きものが相寄って支え合うことは宗教心の全てではない。私と言う絶対的に孤独な存在であることに目覚め、落ち着くことが、他者を受け入れる唯一の近道であることも宗教心の本質であり、宗教心を持つことの意義もあるのではなかろうか。一人で生きていけないことも、一人で生きて行かなければならないことも、共に人生の真相であり、命の実相であろう。

いづれにしても、人間はどうしてこんなに近視眼的になってしまったのか。時間と言うものを信用することが出来なくなった現代人。それは絶対的に孤独な自己を信頼できなくなったことと無縁ではないように思う。「無宗教」ということに何の痛痒も感じなくなってしまったほどに、私達は「自己」をどこかに置き忘れて来てしまったようだ。





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コメント(4件)

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おはようございます
 そのような風潮があります。全体を見ないである部分(特にお金の部分)だけをとらえていますね。
湘次
2010/06/22 08:29
非常に読み応えのある記事でした。
ご存知のように、最近私もご縁がありこの種の問題に深く携わる機会がございます。
もちろん自分自身の問題として、そして宗派の問題として、また社会から見た問題として、その見解や分析の仕方は多種多様なものであると感じます。
とかく我々がこの問題を論じようとなると、組織防衛のためとか、自分自身の生活のためといったバイアスをかけられて評価されがちですが、そのバイアス自体に実は問題があるということを最近感じています。
ここで言うバイアスとは、ご指摘のように「○○至上主義」といった類のものであり、まずはそのバイアス自体に我々は擬議を呈すべきだと思います。
宗教問題のみならず、経済、環境全ての分野において、社会全体が少し急ぎ過ぎているような気がします。今の時代、常に全力疾走が求められるような構造になっているのでしょうか。まずそこに楔を打つ必要があるのかなと感じています。
叢林@Net
2010/06/22 11:28
この頃の何もかも古きがよろしいような
そんな風潮にもいささか違和感がある
何がどうあれ明日の時代は若者のそれである
媚びる奴は嫌い
尊敬のない輩は許せない
などと勝手なことを云うても
所詮勝つのは家康である
老いぼれは若者に愚痴を云うまい
いつか彼等も老いの坂
どうせいつかは分かるもの
したたかに生を貪るの他に
人の価値はありえないのだねぇ。

削氷の毀れこぼれて水になり    よし




yoshiyoshi
2010/06/22 13:31
湘次さま。世間の風潮は物事の全体像を見る事は少ないものだと思います。その上で改革なり伝統を守ってゆく知恵がいるのでしょうね。
叢林@Netさま。このような社会問題、そして個の問題の解決も又、時間の流れの中で溶解され、或いは淘汰されてゆくものなのかもしれませんね。お釈迦様が戯論を誡められたのはやはりそれはどこまでも自己完結の生き方として引き受けられたからなのかもしれないと思ったりしています。
よしさま。天地の下に新しきものなし。古いとか新しいとか云っても、わが命を生きることを避けられません。生きる事はやはり創造的な営みかと思います。合掌
市堀
2010/06/23 09:22

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