再生への旅

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zoom RSS 年賀状というお布施

<<   作成日時 : 2010/11/27 05:24   >>

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賀状書く窓を覗かれゐる思ひ 玉宗

11月になり年賀欠礼の葉書が届き始めると、今年もまたそんな時季になったのかと思い知らされる。テレビを見ていたら、郵便年賀はがきのコマーシャルあり、そのキャッチコピーが耳に残った。

「年賀状は贈り物だと思う」

ん〜、なるほど美味いことを言うもんだと、感心した。
この時期になると些か憂鬱になる私である。お坊さんの中には年賀状を出さずに、釈尊誕生の日・花祭りの日に一年の挨拶状として出されるお方もいる。また、「年賀状は出しません」と公言されるお方も。思うところあっての生活改善なのであろうし、新年の挨拶としての形は様々あっていいと思う。

 私は未だ、年賀状を欠いても差し支えないという決心が着かないでいる。今でも毎年五百枚程の年賀状を出し続けているのだが、「贈り物」と捉えていただけるならば悪い気はしない。半世紀以上人の世のお世話になっていると、様々な付き合いの度合い、温度差が出来てしまった。立場上出さなければ差し支えが生じる世間でもあることも学習したし、義理という付き合い方もこの世にはあると腹を括るようになった。

それにしても、このキャッチコピーは郵便事業の営業戦略に乗せられているような気もしないではない。資源の無駄使い、又は形ばかりに拘る悪しき風習いと捉えることもできなくはない。しかし、50円の葉書にこころを込めて一筆認めれば、他の何物にも変え難い贈り物の一つになることを穿ち過ぎだと捨て去ることもできない。

真心の籠った言葉一つで、こころが繋がることもある。手書きであるとかないとか、大量印刷であるとかないとか、本質的にそれは大した問題ではないと思う。頂いた方はその言葉がこころに響くか否か、嗅ぎわけるものである。要は、言葉ひとつ、たかが葉書一枚と侮ってはいけない。人間は些細なことをけっこう気にかけて生きて行くものである。義理も過ぎれば足枷となるが、無理や不自然のないお付き合いの中で、そんな小さな刺を抜いて気分爽快に一年をスタートさせたいものである。

私にとって年賀状は布施だと思うようになった。





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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
寂しさは云わないけれど寒椿    よし
yoshiyoshi
2010/11/27 06:18
おはようございます
 お布施と思えば年賀状を書くのも気が楽になりました。
 昔は会社の人に義理でせっせとたくさん出していましたが。
湘次
2010/11/27 06:52
こんばんは。
年賀状の季節になりますが、本当に一年って早い、と思う歳になったものです。
パソコンの住所録、領域を広げるのに操作してたら
消えてしまい、冷や汗タラリ!! 
新しく記録しなければいけなくなってしまいました。
情けない、自分に怒ってます。
ルフレママ
2010/11/27 19:46
 よしさま。一句ありがとうございます。
「寒椿つれなき風が吹くばかり 玉宗」

 湘次さま。
お布施の出来る我が身に感謝しなければならないことに気づきました。支え支えられているお互いであることを再認識する年賀状でもありますね。

 ルフレママさま。
昔は、皆手書きでしたのにね。コピーや印刷が可能になり、義理の年賀状が増えたのかもしれません。そう云う意味では、仕分けが必要ですね。合掌
市堀
2010/11/28 19:45

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