再生への旅

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zoom RSS 縁起の悪いお坊さん?

<<   作成日時 : 2010/12/13 05:46   >>

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烙印を捺されて焚火守ることに 玉宗

先日、菩提寺が浄土宗である檀家さんが、事情で曹洞宗である私に葬式を依頼された記事を紹介したが、その後日談がある。当家はまだ中陰の最中なのであるが、親戚筋の篤信家であるおばあちゃんが、毎朝仏壇に念仏のお参りをされているのだという。その家の娘さんがお寺に相談に来た。

母が毎日のようにお参りしていることに対して、近所の者が次のようなことを忠告するのだと言う。

「禅宗のお寺さんに葬式してもらったんだから、その仏前で念仏申しちゃまずいだろ。罰があたる、縁起でもない」

宗派根性、宗派への拘りは田舎だけではないだろうが、宗派を超えて「死」を縁起でもないものとして敬遠、忌避し、それに関わるお坊さんも又、「縁起でもない」存在であるという眼差しを感じることがある。神道に於いて「死」は忌むべきものであることは理解できる。「穢れ」という思想が「精気」を「穢す」ものであるという把握は神の働きが「生」の一面にスポットライトが当てられている事の証左であろうか。私の思い込みでは、神道において「いのち」とは「生の活力」の謂いであるらしい。

一方で、いのちとは「生」と「死」を表裏一体とした現象であるというのが仏教の立場であろう。「死」が縁起でもないというのならば「生」もまた縁起でもないものであると言わざるを得ない。「いのち」は「縁起」そのものではないか。そのような「いのち・縁起」を善くも悪しくもするのは偏に私の生き方・生死にかかっている。浮くも沈むも、昇るも落ちるも究極の自己責任である。だれも私に代わって生き、死ぬことはできない。この当たり前の不可能事を「縁起でもない」というのは余りにも「無責任な、得手勝手な、縁起ではない、無明な」申し分ではなかろうか。

如何にいわんや、お坊さんが縁起でもない存在であるというに至っては情けなくさえなってしまう。お坊さんが縁起でもないならば、政治家だって、お医者さまだって、先生だって、平和だって、戦争だって、猫もへちまも、生も死も、一切合財、森羅万象すべて縁起でもなかろう。神道と仏教の混在、交差がこのような誤解曲解を生むのだろうか。いつまでもそんなことを云っていると、神様たちの円卓会議で「にんげんは縁起でもないものだ」と裁決が下ることであろう。




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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
お茶になり新沢庵の三切れほど   よし
yoshiyoshi
2010/12/13 06:19
合掌
 私は御住職様と同じ考えです。
「生」も「死」も尊いものであり死だけを忌み嫌うことは明らかに間違っています。
お寺や、そこで御勤めされる僧絽の皆様は、私に取りましては生きる力を与えてくれる場所と人です。感謝こそすれ、縁起でもないとは恐れ多いことです。
元々、御経はどの宗派でもお釈迦様の説かれた教典です。ちなみに私の実家は念仏ですが、帰ればお仏壇、お墓でも法華経を読誦します。心がこもっているか否かが問題なのではないでしょうか。  再拝
日守
2010/12/14 10:46
 よしさま。一句ありがとうございます。
「母はさながら沢庵石の重さかな 玉宗」

 日守さま。
コメントありがとうございます。
まったく、仰る通りですね。
在家の方々に日守さまのような信頼を得ているお坊さんは幸いです。
ありがとうございました。
合掌
市堀
2010/12/14 16:50

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