再生への旅

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zoom RSS 「無縁社会」・生きてゆく勇気

<<   作成日時 : 2011/02/13 05:18   >>

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人の世のこんなところに蕗の花 玉宗


以前、拙ブログでも取り上げたことがあるが(「縁」・無縁社会という幻想 http://72463743.at.webry.info/201004/article_4.html)、NHK総合で「無縁社会」特集が二回にわたって放映されていた。前回の放映で菊池寛賞を受賞するなど、現代社会の抱える問題を再認識させた契機でもあったのだろう。私自身も今回観ていて、改めて気付かされたことが二、三あったので確認しておきたい。

今回は「無縁」が十代から高齢者までの広い世代に及んでいる実態を抉り出そうとしていた。両親の離婚や貧しい家庭などに育った子供たちが抱える「無縁」。三十、四十代の働き盛りが職に就けないことによって、又は非人間的な職場に生きることによって抱える「無縁」、そして伴侶を亡くした高齢者の「無縁」等。
番組ではそれぞれの世代で「無縁社会」に苦悩する人間が、それぞれの再生を試みようとしている姿を追っていた。

いづれにも「無縁社会」に怯えながらも生きている人々を支援するボランテイアや宗教者達の介在と寄り添いがある。家庭の中に自分の居場所を見いだせず孤立化してゆく十代の少女は社会へ飛び込むことによって自立への道を模索し、生きていることの意味がないと、自殺をも試みた四十代の男性は、地域との関わりの中に再生を試み、定年後、離婚したある男性は、支援組織のスタッフとして生きがいを見出し再生の道を歩む。

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「いのち」は徹頭徹尾「孤独」でありつつ、終始「依存的存在」であるように見える矛盾そのものである。まるで、「矛盾力」そのもが生きることなのであるとでも言いたいように。そんな「いのち」の「無縁」とは何か?そんな「いのち」の「無縁」とはどんなステップへの契機なのか?

「縁」が「ない」というとき、私には「新たな縁」に生きるための可能性の中にいるのかもしれない。又、「縁」があるというとき、私には「失われるべき縁」の可能性の中に生きているのかもしれない。存在は常に危うい。無常であるという現実がある。

現実の真相がそのようなものであるからこそ、「今、ここに生き、生かされてる」ことの奇蹟に思いを致し、大事に生きて行こうとする。それが古今東西の人生の醍醐味ではなかったか。「無縁社会」は古今東西の現実であったに違いない。尖鋭化し、巨大化した現代の情報化社会の中で殊更に注目され、問題化されるのは致し方ない。それはいやがうえにも問題を社会化したということだろう。問題を共有し、且つ、解決を共に考え出し共有する。それはある意味理想社会ではないか。しかし、ことはそのような次第であるのかどうか。

自己実現の希薄化した現代人にとって、それは現実に目の前で苦悩する一人の、生の人間を置き去りにする方便ではないのか。問題を社会化することによって自己責任の世界から遠くに逃れる。問題を希薄化しようとする私がいる。
他者が「無縁」地獄の中で苦悩し、絶望しているとき、私は手を差し伸べてやることができるだろうか、或いは、私自身が「無縁」輪廻の中にいるとき、他者に手を差し出すことができるだろうかという自問が私の中には燻っている。

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「有無」に迷い、浮き沈むかどうか、いつもその危険性の中で私は生きているのである。存在とは奇跡であり、生きるとはそのような奇跡のために「力を尽くしている」ことであるのかもしれない。しかし、様々な縁を受け入れ、自己を創造すること、それは言うは易く行うには難い。現実を生きるにはちょっとした「勇気」が必要である。現実に踏み込むための最初の一歩のために力を尽くし、或いは力を添えてあげる。これもまた自己は一人であって独りではないという矛盾の一側面ではなかろうか。

そのようなことを考えさせられた今回の番組の中で、再生の日々を歩む十代のある少女の言葉が印象的であった。

「人と関わることによって自分が変わることができました。」

人間は思い込むことによって「安心」することもあるが、思い込むことによって「不安」に陥り行き詰まることも多い。生きるとは、「日々変わること・事物に対応すること」であるとも言えよう。本来、そこに何の遠慮も躊躇もいらない筈である。「無縁」とは「縁がなくなった」という「縁」からの言い分ではない。人間が「縁」を見失っているだけではないのか?

縁がなければ努め、寄り添い、支え合い、許し合い、補い合う。そのような無私にして柔軟な、寛容にして強靭な、無常を生き抜く精神が私にあるのかどうか、そのような個人的力量が私にあるのかどうか。問題の解決方法は社会的なものでなければならないと同時に、個人的なものであることも免れない。危うい存在者である人間が生きるとはそういうことなのだから。






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最近問題視されている「孤独死」や「無縁社会」について仏教の立場から考えてみよう。 ...続きを見る
つらつら日暮らし
2011/02/13 05:28

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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
33年ぶりのご開帳、わくわくしますね。
大阪にある観心寺の如意輪観音は
年にたった2日間だけのご開帳
学生の頃その日、丁度奈良にいて
急遽大阪に向かったことがありました。
私も5月が楽しみになりました。

無縁社会、私も観ました。
若者は働けず、老人は死ねず
無縁社会をこのまま生きるのでしょうか。
老人と介護を仕事にする若者と
一緒に暮らす施設をつくったらいいのでは・・・・・
などとと思いましたが。
昔は住み込みという働き方がありましたよね。
いらくさ
2011/02/13 05:48

息を吐き無縁を笑へ夕霧忌    よし

人の情けに縋らずにやうやう生きる道野辺の
春の董の花の明るさ

他人との繋がりが幻想であることなんて
ここまで生きていればほんとは
分かってるつもりなんですがねぇ
yoshiyoshi
2011/02/13 07:15
 いらくささま。
無縁社会が昔より広がっていることは否定しようがありませんね。残念ながらそれは事実なのでしょう。私自身がその危うさの中で生きていると思うとき、今あることの在り難みを痛感するのみです。

 yoshiyoshiさま。
情けは人のためならず。自分さえよければ、という風潮が現代病の根源なのかもしれませんね。

合掌
市堀
2011/02/14 19:14

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