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zoom RSS 「夫人、置いてかないで〜!」・認知症という自立

<<   作成日時 : 2011/04/03 05:09   >>

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どなたかは存じませんがあたたかき 玉宗


「認知症介護は、長編のロシア文学に似ている。」と指摘する方がいる。彼に言わせると、一件一件がそのくらいの重さを持つということらしい。今の介護段階は、ようやく登場人物が出揃い、ニコライ=ペトローブイッチとかフェドウシャ=ワシリーエベナといった名前にも慣れ、さてこれからどんな物語が展開されるのか、といったところなのだという。

さて、自他共に認めるところとして、
「方丈さんは奥さんがいなければまともに生きていけないんじゃないかね。」といようなことをよく言われる。
確かに、お寺の金銭出納簿の管理も、身の回りの世話も、生活の八割方は夫人に支えられてお寺さんをしているような有り様である。社会的にも家庭内的にも面倒なところは白紙委任してきたところがある。
「頭をそっくり預けてきた」どころではなく、食うことも下の世話も、上半身から下半身まで夫人の全権下にあると云って過言ではないかもしれない。能登半島地震で死にぞこなったとき、一瞬一人になって生きてゆくのかと心細い思いをした私である。識者の指摘によると痴呆症になる可能性は高いのだが、今のところ本人はその兆候がないようである。却って、夫人の方がしきりに自分の認知症への不安を口にするようになった。二人とも同じ年の五十五歳である。

「おいらが認知症になったらよろしく頼んますよ」

「お父さんは大丈夫でしょ。絶対私の方がボケるに決まっているわ。」

「あっそ。そんときは面倒みてあげるよ。」

「いやだあ、そんなの・・私が絶対先に逝きますから」

「いやだあ〜、はないだろう。俺が面倒見なくてだれが見るんだい?!」

「・・・・・」

「なんだよ、今さら他人行儀な。夫人、置いてかないでくれよ・・・」

常日頃、細々と私の身の回りのことから、お寺の寺務管理まで身を粉にして尽くしている夫人であるが、老後に対するこんな思いを抱いていることを知って、正直なところ以外であった。頭を使い過ぎるのも、使わなさ過ぎるのも認知症への道を歩むことになるのだろうかと少し考えさせられた。余りに夫人におんぶにだっこしていたのではないかと反省頻りである。

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ところで、老後を子供や夫、或いは妻の世話になりたくないという現代人の心理は如何なものなのだろうかと思わないではない。誰にも迷惑・面倒を掛けたくないという遠慮をよく耳にする。他人は勿論、親族に対してでもある。
然し、面倒をかけてないで生きてゆくことなど出来るのだろうか?産まれてきてからこの方、延べ人数にして膨大な面倒、迷惑をかけてきているにちがいない。それを忘れているらしい。或いは忘れたふりをしているのか。解りきったことのために却っておぞましくなっているのか。

生まれること、生きること、老いること、死んでゆこと、それら命の有り様は綺麗ごとだけでは済まされない事実であろう。人生は清濁合わせ呑んでなんぼのものではないのか。
迷惑や面倒にもいろいろある。人様を傷つけたりして、生き死にに関わるようなことは厳に慎まなければならないが、人様としてごく普通に生きている現実はお互いに面倒を掛けあっているのが真相ではないか。死んでゆくときも、死んだ後も、質量ともに様々な迷惑や面倒をかけるに違いないのだし、人間の自立とはそんなお互いの迷惑や面倒の中で成し遂げられているものではなかろうか?認知症になっていたとしても「いのち自立」しているのであると思いたい。

少子高齢化の加速で、世話になりたくても親族がいないという現代的事情もあろうが、今はそれを云々しているのではない。
「私は今、誰にも面倒や世話をかけても受けてもいない。まして迷惑は。だから老後も、死んでゆくときも誰の面倒や世話を受けたくないし、まして迷惑をかけたくもない。」
それはもしかしたら、現代人の穿ち過ぎた妄想ではないのか。

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生まれて独り立ちするまで下の世話からなにまで、面倒を掛けきた今の私である。老後の数年認知症になって世話になったからといって恐縮することもなかろう。生まれてきたときの命だけが尊いのではない。元気でいる命だけが尊いのではない。老いている命も、病んでいる命も、死んでゆく命も同じように尊いのではないか。 

このたびの大震災は勿論、年間の三万人を超える自殺者、世界各地から報道される戦争犠牲者、天災による被災者、犯罪や事故による被害者、等など。「死」もまた日常茶飯事であることを知っている筈であるが、「生」だけが命の領域であると錯覚しているように見える。なぜか「死」や「老い」や「病」を遠慮するようになってしまった。如何にいわんや「仏」をや、である。

効率や能率や損得や合理性だけが人間の条件になり下がってしまった現代。無駄に、無為に生きることが許されない現代。
然し、本来、人生とは切っても切り離せないのが「生老病死」ではないのか。面倒や世話を掛けあうのも今生の縁である。私は死んでゆく日まで夫人に面倒をかけ、世話になるつもりでいる。夫人にも私に面倒をかけ、世話になり続けてほしいと思っている。







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コメント(2件)

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市堀玉宗さん  こんばんは! 

どなたかは存じませんがあたたかき 玉宗さん

一昔までは考えたことが無いような・・、
いろいろな生き方があり過ぎているようですね。
このままのスピードで行けば怖い気がします。
私は家内にいつも言っています。
俺より先に行くな・・・
せめて8日は長く生きてと・・。

陽だまり
2011/04/03 22:24
 陽だまりさま。
コメントありがとうございます。
せめて8日ですか。初七日が済むまでということでしょうか?(笑)
夫婦と雖も、彼岸までは同行してくれませんね。
まあ、あの世で又一緒というのも考え物ですが・・
合掌
市堀
2011/04/04 11:16

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