再生への旅

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<<   作成日時 : 2011/05/15 20:58   >>

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木蔭より日向の牡丹見て病めり 玉宗

東日本大震災の被災地で、身元不明の犠牲者の供養にどこまで関与するべきか、苦慮している自治体があるらしい。憲法が定める「政教分離」の原則が数十、数百に及ぶ嘗てない遺体の対応に戸惑っているというのである。

仙台市市営のとある墓園の事例で、身元不明24人の遺骨が、プレハブの建物の中に置かれ、見届けたのは市職員らだけで、お経も、祈りも無かったという。仏教会から読経の申し入れがあったが、市側は政教分離を理由に「市職員と宗教者が同席することはできない」と断った。仏教の概念だからと四十九日の合同供養も見送られた。いずれ市として独自の催しを予定しているという。

憲法は信教の自由を保障するため、政治に宗教的中立性を求める政教分離を定めている。国や自治体が特定の宗教団体に特権を与えたり、自ら宗教的活動を禁じている。今回の事例を過剰反応ともいえると指摘する識者もいるようだが、自治体も本音では葛藤しているらしく、「本来なら手厚く送られるべきなのに、心が痛む。理詰めでは全部許されなくなる。こういう問題は予想していなかった」と語っている。これも又、予想外ということか。

現代、「宗教界」が憚りながらも社会に存続しているのにはそれなりの歴史がある。「宗教」という大義名分のもとに「まつりごと」を利用し、利用されてきた現実が嘗てあった。古来から「宗教」が争奪や侵略や平和や理想に伴なう生死の意義づけ、後見になっていた現実があった。近くではオーム事件のように「宗教」が大量殺人を犯す詭弁にされた事例もある。「宗教」と聞いただけで、なにやらただならない、危ない雰囲気が漂い始める社会のセンサーが働き出すようになって久しい。

憲法が「宗教界」を政治という「公的なる領域」から排除する「心情」も解らないではない。ところで本来「宗教」は私一人のいのちの「深さ・質・体温・実感」に関わる領域の事であろう。それは私にとって「私的」にして「絶対的」なものであるが、私の遥か遠くから働きかけてくるという次元で、「公的」なものであると言える。私的にして公的、それはいのちの端的が担っている矛盾力そのものといっていい。そしてそれは、「量」や「数」や「権威」を当初から期待していない。然し、「宗教界」という概念が働きだすと途端に「量」や「数」や「権威」が問題視されるようになる。なぜだろう?

不思議でならないのは、「宗教界」が身元不明者の供養をするのに従来の「儀式」に拘る節があることだ。「宗教会」として被災者に何をしてあげれるか?と設問することもいいが、もっと本来的には、一人の人間として眼前に困窮している人間に何ができるかと自問自答することではなかろうか?「数」や「量」が被災者の復旧に役立つことは確かであるが、それは宗教者に課せられた領域ではなかろう。宗教者として期待されていないのであれば、その時は一人の人間として汗をかけばいいのである。
政教分離という理由で死者からさえも遠ざけられるのであれば、一人の宗教者として行方不明者のために日々の精進の中で身を尽くし、勤行し、回向するという方便もあろうではないか。

政教分離。
それは社会から指定された宗教界の指定席である。それはそれでいい。然し、「宗教」をもたない個人のまつりごとがつくる「国家」が人間の愚かさの上に成り立つ砂上の楼閣になりうることを忘れてはならない。国家も自治体も、個人も宗教者も、その覚悟があるのだろうか?







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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
ご無沙汰をしておりました。

>政教分離。
それは社会から指定された宗教界の指定席である。それはそれでいい。然し、「宗教」をもたない個人のまつりごとがつくる「国家」が人間の愚かさの上に成り立つ砂上の楼閣になりうることを忘れてはならない。国家も自治体も、個人も宗教者も、その覚悟があるのだろうか?

重い、重い、実に思い問題提起ですね。考えさせられました。
叢林@Net
2011/05/16 00:14
十一の子は帽子かな慈悲心鳥  よし
yoshiyoshi
2011/05/16 07:43
 叢林@Netさま。
ご苦労様です。お元気でご活躍のことと存じます。我々お坊さんだけではなく、様々な主義主張、信念が押し付けとなり、脅迫観念とはならないかを危惧する事があります。一人の生身の人間として何が出来るのか、被災者へのアプローチは肩書以前の私の良心の真偽と行動が問われているのではなかろうかと。そんなことが言いたかったのです。お体、気を着けて頑張ってください。合掌

 よしさま。
《慈悲心鳥おのが木魂に隠れけり 前田普羅》
市堀
2011/05/17 17:38

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