再生への旅

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zoom RSS 究極の自己責任

<<   作成日時 : 2011/06/22 03:51   >>

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ててなしの仔猫顔出す典座かな 玉宗


私共は自らその為すところの志や動機を代弁するのに、「人のため」とか、「社会のため」とか、大義名分を言いもし、耳にもする。一方で自らの窮地を弁解するのに「社会のせい」とか「組織のせい」と言いもし耳にもする。個人から集団、国家に至るまでの様々な事象や風潮、事件や紛争、混乱を見聞するにつけ、現代は一見様々な正義感や不満に満ち溢れている。そしてその正義や不満は全て記号化・デジタル化されて、危険な無責任この上ない社会を作り上げているようにも見える。窮すれば鈍す。人類は未来の子供たちにどのような「こころの遺産」を遺そうとしているのだろうか。

自然の変化と同じ様に、人間社会もまた変化するものであり、それらに対応することがこの世を生きるということに外ならないとも言える。いづれにしても様々な構図の中で生まれる不安や不足は補い合い、平安や余剰は分け合うことが肝要ではないのか。日々変化する「縁」の世界へ、主義主張を越えて、それぞれが偏りのない、柔軟なこころをもって順応するところに、自ずと「皆ともにわたる責任ある」世界が展開されるのではないか。

仏道とは本来誤魔化しの効くような世界とは対極にあり、究極の自己責任の世界ではなかろうか。そこには、「縁に生かされている命」への目覚めと、「おのづからなるもの」への謙虚さがあろう。社会貢献や不満を持つのが悪いというのではない。自己の見栄や保身など、欲の世界の延長で為す事を、「何々のため」とか「何々のせい」という隠れ蓑を借りて誤魔化す「我への執着」が問題ではないかと言いたい。
自己のいのちの完結に誰も責任を持ってはくれない。絶対的評価など望むべきもない。死すべきいのちの宿命に目を瞑り、胡坐をかいている現代人。その「無責任な生」のツケが次代に回されないことを祈るばかりである。

生きている私とは、一人であって独りでない。神仏とともにあり、人とともにあることへの生きる権利と責任があるのではないか。そのような矛盾した内外への適応力を持った命ではなかろうか。思い通りにならない縁の世界ではあるが、世界とともにある存在であることを忘れないようにしたい。







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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
新しき靴を下ろして梅雨晴間  よし
yoshiyoshi
2011/06/22 05:37
 よしさま、一句ありがとうございました。
「梅雨晴間見慣れぬ猫が貌を出し 玉宗」
市堀
2011/06/23 19:36

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