再生への旅

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zoom RSS 宗派を超えた話

<<   作成日時 : 2011/07/13 04:15   >>

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手遊びの風が風鈴鳴らすのさ 玉宗



輪島市仏教会の役員会があった。
浄土真宗、浄土宗、真言宗、曹洞宗、日蓮宗と宗派を超えた仏教会であるが、これまでの活動をみると年に一度「戦没者追悼会」を開催するくらいなものである。戦後暫くは「釈尊降誕会・花祭り」もしていたというが、それも私が輪島に来る大分以前の話である。「戦没者追悼会」も遺族が少なくなり、法要そのものの存続を危惧する声も上がってきている。政教分離上、遺族会は行政から弔慰金のようなものを貰い、その中から仏教会に法要を依頼するという形をとっている。ここにも宗教が公約数的に宛がわれてきた戦後社会の風景があるのかもしれない。

宗派を超えた仏教会としての活動には同じ宗派内の合同活動より融通の利かない現実がある。仏教の源はお釈迦様であり、それはどの宗派も認めるところであろうが、実際のところ、わが開祖の教えを金科玉条とまで固執しないまでにしても、宗派間の垣根を超えて行き来することは中々見られないものである。当たり障りなく、お互いに敬して遠ざけているという観がないでもない。

人の数だけ入口があって然るべきだとも言われる宗教の世界。宗教を訳のわからないものしているのは私自身を含めた宗教者自身ではないかと思いたくなることもあるが、現実は多様性が生物の活力と継承を担保するように、宗教も又、その生存のために多種多様性が必然的に備わってきたものなのかもしれない。

それにしてもである。「生と死」といういのちの教えであることの普遍性を否定する者はいないであろう。時代とともにある仏教とは、今を生きる人々の苦楽や迷悟と共にある仏教でなければならない。そうではあるが、社会へ新しい仏教の受け皿を創り出すことは、言うには易く誰もが苦慮しているのではなかろうか。

それも又仏教者の責務であり、醍醐味ではあろう。それが即ち組織の大小に関わらず、仏教者としての能力を試されるということであるには違いない。世界はお坊さんのためにあるのではないが、宗派間の垣根を云々している間に、現実はとっくに宗教の垣根を越えてしまうかもしれない。お坊さんも又、諸行無常の中で自らの生きる姿勢を創造していかなければならない。








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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
可笑しきはどのみち郷も夏の月  よし
yoshiyoshi
URL
2011/07/13 07:20
 よしさま、一句ありがとうございます。
パソコンの具合が良くないとか。
風入れが必要なのでしょうか?
PSも熱中症ですね。
お大事に。
合掌
市堀
2011/07/15 20:49

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