再生への旅

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zoom RSS 広島忌・宗教が抑止力になるとき

<<   作成日時 : 2011/08/06 05:04   >>

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渇水の蛇口の叫び広島忌  玉宗

昭和30年生まれの私は戦争を体験していない。
「戦争を知らない子供たち」の世代であるが、私の回りには、世界中の戦争・紛争・テロ・略奪・犯罪・災害・事件事故、等々、人類の愚かさが毎日のように文字化や映像化されてやってくる。まるで地獄や阿修羅と紛う情報がコマーシャルや娯楽情報と同じように世界を駆け巡り、垂れ流され、忘れられている。現在だけではなく、過去のものも、そして未来の悲惨なシュミレーションまでもが、これでもかこれでもかという執拗さで繰り返される。情報を選択する余地もないままに、情報の飽和状態で今を生きているようなあり様である。

過去も未来も「情報」という動かし難くも陽炎のような「現実」となって私の日常に暫し留まり、そして通り過ぎて行く。「情報化」された「不安」や「希望」が霞のように私の空を蔽っていたりいなかったりする。まるで情報が神の言葉であるかのごとく。

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世の分別ある大人たちは「戦争を知らない」私達の「現実感の甘さ」を危ぶむ。「現実」を生きる厳しさ、厳粛さに欠けている戦後世代の危うさを憂うる。その一方で私達は血を流さなければ贖えないような「現実という化け物」のリアリテイのなさに戸惑っている。

今も昔も世界中に悲惨な事は絶える事がない。それを見るたび聞くたび、感覚が麻痺するどころか、私は胸を締め付けられ、涙する。情報が私の感性を揺るがす。殆どそれは条件反射のごとくである。私の命のどこかに擦り込まれた他者の痛みを共感する感性。しかし、それは他者を排除する反作用として働くこともある煩悩の一つなのかもしれない。情報が溢れる現代と世界がまだ狭かった昔と、その感性に違いはあるのだろうか。お釈迦様の時代より現代人の方が、痛みを共感する能力が麻痺し劣化しているとは思いたくはない。

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核の抑止力というものがあるのだという。相殺するとは暴力を無意味化するということか。暴力から意味を剥奪するならば、核を持たない抑止力と云うものもあるのではないだろうか。丸腰の人間を意味もなく殺めるほど人類は傲慢なのだろうか?

核爆弾が人類の愚かさの象徴であることは誰もが分かっている風である。然し、解っていても、どうすることも出来ない、どうすることもしない風でもある。もの解りのいい現代人の絶望も又、極めてリアリテイのないもになってしまった。これも「情報化社会」に浴する故の業であろうか。

私という小さな存在がどうしたらリアリテイを持って今を生きる事ができるか、自己に落ち着くことが出来るか。宗教がそういうものでないならば、宗教そのものも自己抑止力を持たないものに過ぎないだろう。宗教が戦争の大義名分に成り下がる所以である。戦争の悲惨さが学習されないのは、個々の冒し難い命の絶対性への尊厳さが抑止力を持たないからだ。そのような人間力のパワーバランスであるならば宗教は永遠に戦争の抑止力とはならないであろう。

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現実と理想。社会と個人。それは双子の兄弟のように分かち難く、そして全く別のもののごとく歩む。そのような世界の矛盾の為に私は存在するのだろうか?しなければならないのだろうか?社会とは個の集積だろうか?それは全く別の生きものなのではないか?
「現実」はすべて、「私」という「小さな可能性」が「何をしたか」「何をしなかったか」という足跡であり、「愚かさ」とはやはり、私が私自身を知らないことである。社会の愚かさはそのような個の愚かさの集積として制御不能となる。

釈尊は個が単に社会の要素としての量的存在なのではなく、私一人のいのちの絶対的領域に生きる何物かであると諭す。命の深さへ向けて自己変革のアプローチに専念せよと云っている。自己の変革は世界の変革であるという確信がある。理想がある。それを為政者や社会は弱者の戯言と言う。釈尊にはどこかにそのような人間や社会の愚かさを見切っているようなところがある。

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嘗て王室で暮らしていた釈尊。その王国が戦争で滅んでゆこうとしているのを見て、出家した彼は立ち上がり武器を手に戻ることはなかった。煩悩と云う情報に振り回されることもなく、ただ、黙って坐禅をして自己のいのちの深さに居座った。あれが宗教が抑止力となった瞬間であったと私は思っている。一粒の種が地に落ちる瞬間。

畢竟、宗教は戦争と云う愚かさに対して無力であるか。然し、それは人間に絶望することと同じ愚かさなのかもしれない。人間がそうであるように、宗教もまた可能性の上の存在するものであるには違いないのだから。





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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
> 管理人様

如何にして、一度振り上げてしまった拳を、自ら下ろすことが出来るか?ブッダの教えには、このことが入っていると思っています。
tenjin95
2011/08/06 05:19
 宗教や核を持たないことが戦争の抑止力になれば、人の暮らしはどんなにか穏やかになるだろうに…と思わずにはいられません。日本人は「私は無宗教です」とあまりにも胸を張って言い過ぎるきらいがあるとおもっています。宗教のイメージが戦争と直結するからなのでしょうか?
 抑止力、という言葉も為政者に都合良く使われているような気がしています。
くろちゃん
2011/08/06 07:44

くろちゃんへ

仰る通りです。

でも、「人間だもの」で逃げていると思っています。
ゴメン
2011/08/06 10:17
 tenjin95さま、コメントありがとうございます。
自己の煩悩の火を根絶やしにすることが仏弟子の全てであり精進の本質ですね。

 くろちゃんさま。
宗教のイメージが戦争と直結してしまっている現代社会、それって不幸なことなのだと思うのですが、お釈迦さまもこんな世を想像できたでしょうか。

 ゴメンさま。
人間らしさに救われ、そして閉口することもある私です。甘えてはいけませんね。

合掌
市堀
2011/08/07 04:22

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