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zoom RSS 俳句は言いたいことを言ってはならない?んな、ばかな!

<<   作成日時 : 2011/09/16 11:49   >>

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枝先に取ってつけたるくわりんの実 玉宗

時々拙ブログでもご紹介している「てらやまへメール」のいらくささんからのコメントにあった以下のようなツイッターの反応について考えてみたい。

<あなたの俳句の最大の敵は、あなたの「言いたいこと」です。俳句は言いたいことを言うための形式ではないし、まして「言わなければならないこと」を俳句にするなどというのは欺瞞です。言わなければならないような大事なことは、ふつうに文章に書くか口に出すかにしてください。俳句は言いたいことをいう形式ではない」「まして、言わなければならないことを言うなんて欺瞞である>

紹介したツイッター氏の言は俳句が表現形式でないと言っているに等しいし、フアシズムを思わせる言論統制、形式主義的、排他主義的物言いである。伝統俳句という無益な、ありもしない枠組みを検討するつもりはない。俳諧の変遷はまた自己表現というその可能性を広げてきた詩形の歴史でもあろう。五七五の最短定型詩である俳句。そこには和歌から派生した俳諧精神が貫かれている筈である。

近現代に事大主義の仮面を被っている「写生」も又、俳句の可能性の過程であろう。第二芸術であろうが、第三芸術であろうが、俳句は俳句でありさえすればそれでいいのである。確かにそうではあるが、その「俳句であればいい」ということはどういうことか?

流行と普遍。内実と形式。内に感性豊かな実がなくて、どうして形式を活かすことができるだろうか。「言いたいこと」「言わなければならない大事な事」それは必ずしも観念や主観の領域とは限らない。俳句が文芸であることをやめない覚悟があるならば、言葉以前以後の詩性、感性、沈黙の世界こそが「大事な事」でなければならない。

客観写生子の欺瞞とは「言いたいこと」「言わなければならない大事な事」に眼を瞑って事足りようとしているところにあろう。昨日の敵が今日の味方ということもよくある話だ。主観や観念や俳句がつまらないのではない。つまらない主観や観念や俳句があるだけではないか。又、同じように感性が常に間違わないということでもない。人の感性を借りて事足りているということがよくあることだ。一概には言えないものがある。俳人はどうしてか「やり方」に拘る癖がある。徒党を組むことは勝手だが、作品の価値は多数決や権威でどうにかなる筋合いのものではなかろう。ものの言えない文芸。それは飛ぶことを知らない鳥と同じ穴の狢である。

芭蕉も蕪村も一茶も山頭火も子規も虚子も意匠の違いはあるが、それぞれ言いたいことや言わなければならい大事な事、つまり「表現」に骨身を削っていたのに違いないのだ。
ツイッター氏の発言の背後に感じられる保守的感性。それってどうなんだろう。現代俳句が商業主義やマスコミに誘引されたり、自ら形式主義やセクト主義に堕することも又、俳諧のメルトダウンではないか、という思いが私にはある。崩壊はいつも内部から始まる。





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