再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 結婚しているお坊さんはお坊さんじゃない?!

<<   作成日時 : 2011/09/26 04:38   >>

トラックバック 0 / コメント 6

画像


無様なる南瓜も神の思し召し 玉宗

  • つらつら日暮らしさん
  • のブログでも取り上げていた表題について確認しておこうと思う。
    私もそうであるが結婚しているお坊さんを本来の仏弟子として認めたくない、という人がいることを知らない訳ではない。告発した方がどのような筋合いの人物なのか知らないが、どうも男のお坊さんであるらしい。余ほど義憤に駆られたのであろう。妻帯が現代の仏教の衰退を招き、未来の仏教を行き詰らせると確信した上でのことか。お釈迦様の教えを台無しにした似非仏弟子に溢れかえっている現代!という正義があるのも肯けないことはない。

    ところで、僧団が政教分離によって「宗教法人」として社会的に自立している現代、肉食妻帯を破戒行為として許容するかどうかはあくまで帰依する側の問題であるとおもうのだがどうだろう。又、人が生きるとは過去に学びながら未来へ向かった歩みであり、それは命生きる可能性の必然的展開であろう。平たく言えば、生きるとは創造的なものであるということであり、お坊さんの世界も又同様な状況であるに違いないと思っている。お釈迦様の頃から現代に至るまで、様々な仏教の変遷、変容があったのであり、二つとして同じ歴史的事実などなかったのであり、それは仏教もまた人間の歴史であることの証左である。原理主義者も現実主義者も母のお腹を借りて娑婆世界に生れ落ち再生を賭けているには違いない。

    今をどう生きるか、如何にして世界と一体化するか、如何にして自己の命に落着するかという命題だけが普遍的アポリアとして引き継がれていくべきではないだろうか。独身でなければとか、男僧でなければとか、出家者でなければその資格がないとかいうのは如何にも差別的であるし、修行の実際をかけ離れている。私の命は私が引き受け決着しなければならないことに変わりはない。結婚していればその手間が掛るというだけのことだ。

    画像

    百歩譲って妻帯している私が仏弟子ではないとしてそこに社会的顰蹙を背負わされたり、社会的に仏弟子の資格を剥奪されたとしても、私が私として自己の命を生きて行かざるを得ない事実を如何ともし難いではないか。社会が私に代わって私の命を引き受けてくれないのは永遠に在り得ない。

    確かに仏弟子が肉食妻帯を禁止されその存在条件とされていた時代、環境、場があった。教条的に大乗とか小乗とか北方、南方に仏教の展開があった。今も世界には肉食妻帯御法度の宗派僧団がある。信教自由の現代、どのような仏弟子に帰依するか、或いは私がどの宗派を選択するかは心もとないほどに自由勝手である。

    確かに社会はお坊さんがどのように自らを律しているかと注目しているように見える。よりよきものを選別する眼力はどのような時代にもあるものと心得なければなるまい。
    妻帯しているかどうかが問題視されるのは、お坊さんの本物さ加減が求められているからのこそと受け止めたい。その点は反省するに吝かではないが、それにしても今回のお坊さんの裁判所への告発は本末転倒の、見境のない所業と言わざるを得まい。

    変革の可能性は自己にある、というのが仏弟子の行き方ではなかったか。現代のお坊さんが嘘偽りだとするのならば、自分が本物として生きていくしかないのである。或いは、無視と云う抹殺の仕方もあろうというものではないか。裁判所からの賛成多数を頼んで修行の本質、命の実相が変革できると期待しているところが如何にも仏教的ではない。私はそう思う。






    よい記事と思われましたらポチっとお願い致します。合掌
    にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ

    にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

    にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ


    テーマ

    注目テーマ 一覧


    月別リンク

    トラックバック(0件)

    タイトル (本文) ブログ名/日時

    トラックバック用URL help


    自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

    タイトル
    本 文

    コメント(6件)

    内 容 ニックネーム/日時
    おはようございます。

    昨日は知人のギャラリーまで
    行ってきました。
    自宅が少し浸水したと言いながら
    薬師寺に奉納する幡を作っていました。
    小さな端切れを100枚継ぎます。

    歩いてみると
    美味しいお菓子屋さんが廃業していたり
    多分郡山で一番の桜餅。
    商工会議所が駐車場になっていたり
    壊れた姿を見ていないうち。

    >無様なる南瓜も神の思し召し
    南瓜を私にして遊んでみました(笑)







    いらくさ
    2011/09/26 10:16
    はじめまして、お邪魔します。

    私は維摩さんを手本としたいと思っています。
    欲は無くすのではなくて、少欲でしたよね。
    通りすがり
    2011/09/26 20:44
    裁判所に訴えたとは、奇特な方がおられたものですね。時の権力を借りて宗教を正すとは、宗教国家を理想としているのでしょうか。仏陀の教えとは違っていると思います。
    志村建世
    2011/09/26 23:08
    いらくさ様。
    台風の影響で福島も散々な思いをしていますね。
    もっと国がスピード感をもってみちのく再生に取り組んでほしいものです。一体どうするつもりなんだ、と思わないではいられません。未来図を示して欲しいですね。辛抱にも限界があろうというものです。

    通りすがり様。
    コメントありがとうございます。
    維摩居士ですか、お坊さんも真っ青の大居士ですね。(^^;
    欲を失くすのではなく、調える。仰る通り少欲知足ですね。欲にも色々あり尽きる事もなく、それは生命力のそのもであるのかもしれません。放っておいて言い訳がありません。人類の歴史がそれを教えていますね。ご精進を祈ります。合掌

    志村建世様。
    不条理な世の中に腹を立てることに私も吝かではありませんが、負けるが勝ちと云うこともあります。
    結婚しているお坊さんが駄目なのではなく、ときどき駄目なお坊さんがいるということで、そのような厄介なことはどの社会にもある「思い通りにならない事例」でありましょう。
    正義が普遍性を持つには外にも不可欠な条件がありそうです。
    合掌
    市堀
    2011/09/27 10:57
    こんばんは。
    「お坊さん、お坊さん」と常にご自分に「お」をお付けになるのはどうしてなのでしょうか?
    どういった意味合いで毎回記事中で連呼なさるのか一度お訊きしたかったので、よろしくお願いします。
    通りがかり
    2011/09/28 19:42
    通りがかり様。
    この記事だけに限りませんが、「お坊さん」という謂い方に拘るのは、三宝の一つである僧宝である方々に敬意を表したい思いからです。
    「坊主」とか「坊さん」などを特に畏まった記事の中で使うのには正直なところ抵抗があるのです。
    これは私の個人的な思いこみなのかもしれませんが・・・
    他意はありません。お見逃しください。
    合掌

    自分自身に「お」を付けているつもりはありませんでした。
    市堀
    2011/09/28 20:29

    コメントする help

    ニックネーム
    本 文
    結婚しているお坊さんはお坊さんじゃない?! 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
    文字サイズ:       閉じる