再生への旅

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zoom RSS 戦没者追悼法要・供養は誰のものか?

<<   作成日時 : 2011/10/22 11:44   >>

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山中は紅葉の冷えに湯の香り 玉宗

輪島市の戦没者追悼法要に出席してきた。先に行われる、市主催の方は「戦没者慰霊祭」という名称で僧侶は出席しない。引き続いて行われる「追悼法要」はあくまで遺族会主催であり、その依頼を受けて輪島市仏教会が読経するというものである。遺族会も市側から補助金を受けており、僧侶へのお布施もその中から捻出されているらしい。その補助金も今年から減額された。戦後六十五年を経て、遺族も少なくなり高齢化している。今年は大ホールではなく、小ホールでの法要となった。ダブルスタンダードになっているのも宗教分離の手前があるからだろう。

「追悼法要」も法要に代りはないが、正直な話、法要もどこかぎこちない。長や議員と名のつく方々が代表で焼香し、遺族が焼香するというのでもなく、僧侶は式場で祭壇に一番近い場所を宛がわれてはいるが、式を差配するのは僧侶ではなく、遺族会から頼まれた市職員のようである。葬祭場での、あの雰囲気に似ている。僧侶は「追悼法要」の一要員に過ぎない。仏教会の方も、法話をするでもなく、二十分ほどのお経をあげて退席する。

仏教会の中にも戦後五十年を過ぎたのだから止めたらどうか、という意見もある。一般的な法事でも五十回忌を最後に先祖入りしたということで年忌法要をしないようになるというものだ。戦争は遺族にとって忘れられない人災であろう。法要に出席する遺族が少なくなっているのは、世代交代で戦後生まれが大半を占める現代の状況に因るところもある。死を語り伝えることも時代を経るに従って疎遠になる可能性もある。供養も又、そのような生きているものの都合が優先されるのかもしれない。行政の方も、国策で生まれた戦没者に対して慰霊しなければという責任感だけで継続してはいないか。戦没者供養が形骸化する虞がなしとしない。

時代の趨勢で政教分離は常識であるとしても、忘れてはならないのは、供養というものが死者への追慕であると共に、今、ここに私が生かされていることへの奇跡と感謝の念を抱く行為であるということ。生きている私自身の、今を再確認し、明日を生きるための力を戴くための再生であるということ。それは本来、市が主催するとか、遺族会が主催するから供養するというものではなく、私自身が死者や先祖とどのように対面するのか、ということが試されているのであると思っている。

情けは人の為ならず。供養は人の為ならず。布施は人の為ならず。追悼の機会を作っても魂が入らなければ、それは無いに等しい。
生と死。あの世とこの世。現象界と冥界。そのような世界と一体であるわが命、それは掌の表と裏のようなものである。遺された私の生き方が問われているのである。






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