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zoom RSS 仏道に談合はありか?

<<   作成日時 : 2011/10/08 04:12   >>

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その辺をひとめぐりして秋日和 玉宗

地元の北国新聞に次のような記事が載っていた。

「公正取引委員会が石川県や輪島市発注の公共工事をめぐる談合に関与したとして奥能登 の建設業など68社に独禁法違反の疑いで、排除措置命令を出した。このうち51社には、総額約6億7千万円の課徴金納付命令が出され、県と輪島市が科す違約金は40億円以上に上る公算が大きい。以下略 」

談合にも色々あり、必要悪だという指摘も耳にするが、犯罪であるというのが現代社会の通念のようだ。ようだ、という言い方は如何にも生半可な社会人の誹りを免れないが、普段から非生産的な生き方をしていることもあり、はっきり言ってよく解らない。世間の人たちが日々の生活の糧を得るために苦労されていることは知っているつもりではあるが、それでも、必要悪と謂われるものが得てして人間側の都合であることは想像に難くない。

アドバンテージやコネクションなどは情の世界のやり取りであろう。「情を越える」のが建前の仏道からすれば、目の前の損得や勝ち負けや好き嫌いよりもっと避けられない人生の一大事因縁を生きているつもりである。
仏道は数を恃んでどうにかなるものではないし、誰も私に代って私を生きてくれないという明白な事実であるばかりであり、自己の命の深みへ切り込むだけのことである。生きている精神的土俵が違う。

食うために生きようとするのは生命力の現れであり、それ自体咎め立て出来るようなものではないが、得てして欲の方が私の主になって、人生を危うきものにしたり、誤ることがあるものだ。会社や従業員や家族の為に、或いは地域や社会の為に、或いは目的や義理の為に、ときに人は主客転倒し、欲に絆されたり、振り回されたり、盲目になったりする。自己の主体性を欲に明け渡してしまう。近視眼的になって自他の見境がなくなり、足元が危うくなる。

人は食うために生きてもいるが、よりよく生きるために喰っているのも真相ではなかろうか。
談合も又、持ちつ持たれつの関係性ではあろうが、人間的絆というより社会的凭れ合いによる閉塞性が感じられる。狭い人間界隈の空中楼閣の危うさが漂っている。人が見ていようが、見ていまいが、誤魔化しが利かない世界があり、一人の人間として創造的に生きようとする人生の価値を無にしてまで食うために生きていると錯覚してしまう。
談合という作為は、自己の生きる世界をより狭くはしないだろうか。自己の可能性を信じることができなくなった現代人。その生きている世界が行き詰らないことを願うばかりである。






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