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help RSS 「夢と仏法」再考

<<   作成日時 : 2012/01/27 04:57   >>

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正夢か悪夢か雪の白いこと 玉宗


『金剛経』というお経の中に「一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 応作如是観」という一節がある。

「夢」と言えば、絵空事、又は儚いもの、或いは未来への希望、志向を意味しているのが一般であろう。
振り返るとわが人生は夢・泡の如く一瞬の出来事ではないかという訳である。当に無常を感じているひととき。
話しがそこで終れば仏道もなにもいらない。そのような常ならぬ人生、危うきわが命をどう生きることが最善の生き方であるのか、というのが仏道という事の始まりである。

命とはいかなるものか。命を無駄にしない生き方とはどのような有り様なのか。今を生きるとは、生きている今とはそもそもなんなのか。私の今の命とは如何なる普遍の象徴なのか、事実なのか。或いはそうでないのか。そのような自己の世界への問いかけが私の側にはある。命が命を受け入れる手間が掛る人間の自己矛盾。
私にとって道を求めるとはどうもそういうことだったらしい。

謂わば、神のみぞ知る、生きている「今のいのち」の真相があろう。私はその因果関係をすべて把握することができない。それでもちゃんと息をしている。理屈が生きている訳ではない。「生きている今」とは過去という「−1」を曳きづることでもなければ、未来という「+1」を引きよせることでもない。かといってそれは「0」に留まることでもない。命という流れそのままを受け入れている「∞なる事実」の連続があるばかりだ。他に置き換えられない何物かとして、私のいのちはそのように事実している。「無常している」と言ってもいい。そして「夢している」といっても差し支えない。

そのような大いにして無常なるがままを、または、そのような計りしれない因縁を仮に「夢」というのである。私の存在は些細なものに過ぎないのではあるが、「夢」という「大いなるもの」ともに「今」をあるには違いない。それこそが、私の思いを越えて一体であることの証明ではないか。

「夢の如し」というこの「如」がくせものである。それは、夢であって夢でないということでもない。似て非なるものということでもない。私は何も知らないに等しいということだ。
そして、「夢中説夢」とは、夢の中で夢を説くということだが、もっと言えば、夢の中で夢を行ずる。夢の中での発心、修行、菩提、涅槃でなければならないということに自ずからに納得させらる。夢なるが故に果敢無い、詮ないことだと歎くことが仏道であろう筈もない。夢は事実である。命の現実である。死んで灰になることが眼前の現実であるように。

儚く、無常なる人生をどう生きることが無駄にしないことなのかという問い掛けが先にあった。その答えの中に生まれてきた私にとって、生き切るためには、その答えを受け入れ歩む力量がなければ叶う筈もないことなのである。ありのままに生きるとは志しのいることだ。指を咥えてなにもしないことではない。

「夢」とはまた「無為」といってもいいだろう。それは私の都合ではない。「夢中」なるが故に救われている私がそこにいる。「無為」なるが故に道に親しめる可能性が私にある。私が仏道を歩む礎たる信のすべてがそこにある。仏道の「夢」は、とりとめもない夢のような話ではない。







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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
小人は荒野(あれの)の夢に気も塞ぎ  よし

yoshiyoshi
2012/01/27 07:48
yoshiyoshi樣。
芭蕉さんは夢は枯野を駆け巡りでしたね。
ロマンチストだったんでしょうね。

市堀
2012/01/30 06:55

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