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言葉の向うにあるもの 「御誕生寺だより」
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作成日時 : 2012/01/08 05:14
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一月の脛が痒くてしようがない 玉宗
「御誕生寺だより」
第20号の巻頭言より。
「ことば」の意義を考える
住職 板橋興宗
<アメリカのポラードの説によれば、人間と猿の遺伝子のちがいは0・5%だという。動物たちは、お互いの感情を交換して、それなりの群れをつくり、生活を共にしている。
しかし、「こうすれば、こうなる」という考え方はできない。「きのう」はこうしたが、「あした」はこのようにするという「時」の観念もない。動物たちは、住む風土や環境に適合して、自分達の身体を変えたり、生き方を順応させている。
人間だけが「ことば」で考えることをおぼえたので、現在の文明社会を築き上げた。これからも人間は便利で豊かな文明社会をつくっていくであろう。
しかし文明の発展の究極はどうなるのだろうか。
人間は「なまけ」者になり、身体的にも精神的にも衰弱の道をたどるのではあるまいか。
人類の行く末が案じられる。
人間は「ことば」で考えることを少なく、適当に汗を流し、自然に親しみ、素朴に生きることに「こころ豊かな」生き方の基本があるのではあるまいか。>
禅師様は以前から「ことば」にするということは説明であり、事実そのものではないと諭される。考えるとは「ことば」を駆使し、実態を縁取り、或いは再構築するようなものであろうか。実証主義とは言いながら、文明や科学とはそのような「観念」の積み重ね、砂上の楼閣ではなかろうかと思う事がある。どこまでも「仮のもの」である。諸行無常の現世に建てられた墓標の如き様相さえ見えてくる。津波被害や原発被害を目の当たりにして、私たちはその人力の虚しさ、限界の事実を知らされているのではないのか。
自然には限度というものがある。真の文明人とは限度を知っている人間ではなかろうか。永遠なるものを見失った現世主義、人間主義。嘗て、自然にとって、人類が我が物顔でのさばる現代のような野蛮な時代はなかったのではないかと言いたくなる。
禅師様の言挙げする「ことば」の意義とは、「ことば」の限界、「ことば」の向うにある彼岸、「自然なるものの調和」に思いを馳せることでことでもあろうか。そして、それはもう取り返しのつかない、遠きこと神話の如きものなのかもしれない。
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