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zoom RSS 普勧坐禅儀との出会い

<<   作成日時 : 2012/02/19 05:23   >>

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魚は氷に仏弟子山に上りけり 玉宗

久しぶりに道元禅師の「普勧坐禅儀」を拝誦した。そして雲水になって初めてこの教えに接したときの感動が甦ってきた。

前半の一部を抜粋すると、

「原ぬるに夫れ、道本円通、争か修証を仮らん、宗乗自在何ぞ功夫を費さん。況んや、全体迥かに塵埃を出ず、孰か払拭の手段を信ぜん。大都、当処を離れず、豈修行の脚頭を用うるものならんや。然れども、毫氂も差あれば、天地懸に隔たり、違順纔かに起れば、紛然として心を失す。直饒、会に誇り、悟に豊かにして、瞥地の智通を獲、道を得、心を明めて、衝天の志気を挙し、入頭の辺量に逍遥すと雖も、幾ど出身の活路を虧闕す。」

宗門で学ばれている「坐禅儀」には道元禅師の他にもいくつかあるが、「普勧坐禅儀」は道元禅師という純粋な求道者の大志に貫かれた四六駢儷体の名文である。そこには「坐禅」は勿論のこと「仏法の真髄」が溢れ輝いている。私のような凡庸な修行者でも、時と処を隔てたその格調ある文章に接すると、励まされ、叱咤され、気が高揚してくることがよくあった。弁道を志す者への深く熱い思い遣りと言ってもよい情愛さえ感じられてくる。

内容的には「行・坐禅」の本質・内実と、その実際・具体的な「かたち」が述べられている。仏道とは深く、そして端的なものであることを物語っている。私の「悟り」とは、私の「迷い」と同様に取るに足りない、過ったものであり、「私のもの」を越えることこそが「行」なのだと仰られているように思う。それは宗門の坐禅が「宗教的な機能と本質」を兼ね備えている「普遍的なもの」であることを証明しているのではなかろうか。自力とか他力の垣根を越えている。そうなればこそ、凡愚なるが故の自己には掴みどころのない高みに見える所以であるのかもしれない。そんなことに改めて気付かされたことである。





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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
おはようございます。
>私の「悟り」とは、私の「迷い」と同様に取るに足りない、過ったものであり、「私のもの」を越えることこそが「行」なのだと仰られているように思う。
・・・自力とか他力の垣根を越えている。
<ありがとうございました。
遊子
2012/02/19 09:14
遊子樣。
私的なものに執着しやすい人間。
何事も過ぎたるは及ばざるということでしょうか。
市堀
2012/02/20 20:51

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