再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 阿吽の呼吸

<<   作成日時 : 2012/03/01 03:49   >>

トラックバック 0 / コメント 5

画像


少しづつ頭よくなる木の芽かな 玉宗

横隔膜の当たりが少し痛いと倅が言い出した。
帰省して半月ほど経つが、帰ってから毎日坐禅とお経の修練をしている。その呼吸を習い始めた弟子が横隔膜が痛いというのも、緩い大学生活を送ってきたツケであろう。頭でっかちを危惧していたが、今からでも遅くはない。どっしりと、地に足を着けて、自己を照顧し、自己を忘じ、空っぽになる工夫をしなければならない。そのためにも先ず、呼吸を矯め直さなければならないのである。「行」の初心にして全てである「呼吸」を疎かにしては元も子もない。

何事も「行」で大事なのは「呼吸」であろう。
坐禅は勿論、読経も又「行」であり、理解するための単なる読書ではない。どちらも呼吸を疎かにしてはものにならない。一般に腹式呼吸と云われている呼吸法が基本である。鼻から吸った息を横隔膜の上下運動と連動させゆっくり吐き切る。その繰り返し。深い呼吸が頭に上った血を丹田に下げてくれる。どっしりとした安定感のある坐相、胴間声と呼ばれる太く重々しい音声が作りだされる基礎となるものであろう。そのためにも日常から背筋を正した姿勢を身につけることを怠ってはならない。おっちょこちょいで、せっかちな私が指摘すると信じられないかもしれないが、浅い呼吸は人間性の浅さに通じる可能性があろう。とにかく、呼吸がものを言う仏道の世界ではある。

お経を誦すにも、すべての「行」に通ずる基本がある。それは「阿吽の呼吸」に徹するということだと思う。一般的に阿吽の呼吸とは息が合う気心の通じ合いとして言挙げされる。然し、仏道に於いては、「阿」も「吽」も、「生」も「死」も、「始め」も「終り」も、前後截断しながらの連続であり、すべて一期一会の今であり、諸行無常の端的である。吸う息、吐く息、今生のクライマックスと捉え、一事が万事、流されず、誤魔化さず行じるのが禅僧の面目であろう。


画像



読経に於いても一字一句をしっかり、はっきり、腹の底から吐き出すように出し切る。惜しむように口籠ってはいけない。高すぎても低過ぎてもよろしくない。浪花節のような絞りあげたような悲鳴ではない。自己主張は厳禁である。朗々として粘りなく、広やかなながら威厳のある、清々として好悪を抱かせない音声というものがある。
誦す方も聴く方も、声ひとつでも執着の対象になる。読経はそれではいけない。坐禅も読経も作務も、何れの「行」も執着を離れた清浄なるものであるのが理想であろう。読経も又、梵音が求められる所以である。

昔から、「やってみせて、してみせて、褒めてやらねば人は出来ぬよ」と謂われている。お経の誦し方もまた師匠が弟子に伝授しなければならない。仏道は褒めるだけではなく、ときには貶すこともあり、どやすこともある。知らぬ間に身に付き、心に染まった諸々の癖を抜き去るには時間が掛る。
出家とは生まれ変わることだと何度も云っているが、それには身を捨て心を捨てる抜き差しならない覚悟がいる。世に捨ててこそ浮かぶ瀬もあるというのは仏道に於いても確かに真実であり、それは読経一つの精進に当たっても同様である。

始まったばかりの弟子の歩みであるが、師匠が先ずやってみせて、弟子にして見せる。そのように、共に「行」じていて改めて教えられることが多い。師匠も又、弟子によって師匠となる。





ランキング応援クリック

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ


テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
 >師匠も又、弟子によって師匠となる。
師匠を親と、弟子を子と言い換えても通じますね。横隔膜が痛くなるくらい熱心に鍛錬していると言うことですよね。頼もしいです。



くろちゃん
2012/03/01 08:03
馬刀堀の愚痴を埋めるの如しかな  よし
yoshiyoshi
2012/03/01 09:59
舎利弗に あずけたまいし 甚深の
その御心は いかにあらむや 
貧女の一灯
2012/03/01 11:25
>横隔膜の当たりが少し痛いと倅が言い出した
<丁度お疲れの出る頃ですね。
慣れてしまえば楽になるのでしょうが、なにもかも初めての事、また、まじめなご性格でらっしゃるのでしょうね。
遊子
2012/03/01 17:23
くろちゃん樣。
私にないものを感じるので我が子と思えないときがあります。(笑)

yoshiyoshi樣。
馬刀堀。潮干狩りの光景でしょうか。ごそごそとやっていますよね。

貧女の一灯樣。
仰る通り、もう仏縁に御預けさせて戴きます。どうなることやら。人事を尽くして天命を待つですね。

遊子樣。
気になるのは、反抗期のようなものが見あたらなかった子ということ。私たちの見えないところで、あったのかもしれませんが・・(^^;
どちらかと言えば、真面目な方でしょうね。それも又、糾える縄の如しですが。

市堀
2012/03/02 08:46

コメントする help

ニックネーム
本 文
阿吽の呼吸 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる