再生への旅

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zoom RSS 人間らしさもいいけれど

<<   作成日時 : 2012/03/04 03:05   >>

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生きてあれ芽吹く風さへ懐かしき 玉宗

「間違ったっていいじゃないか、人間だもの」といったフレーズが世に知られているが、仏道的には、問題はそれから先の話である。

一生懸命生きているのに、間違ったり、失敗したりするのが人間であると結論付けるのはそう難しいことではない。「人間らしさ」を失敗の言い訳とするには陳腐と言っていいほどのものであるとも言える。人間が不完全な生きものであることは自明の前提であり、それは言いかえれば、「可能性としての存在」ということであり、失敗や間違いを可能性の故にするのは何も言っていないに等しい。
言挙げされた当人の不屈の人生行路からも伺えるように、人生の醍醐味は「失敗」や「間違い」から人生の実相を学び、自己再生し続ける事ではなかろうか。そうであればこそ「失敗」や「間違い」は勿論のこと、人生に無駄なものは一つもないという事実を肯うことができるだろう。

「人間らしさ」という言葉はよく耳にするし、自他の「人間らしさ」に良くも悪しくも振り回されることも多い。それも人生模様であろうが、同時に、人間らしく生きることが疑いもなく当たり前なのであろうかと思いを致すことも、より一層に人生にとって不可欠な自問ではないだろうかと思っている。

お釈迦様の実践された中道の生き方は、人間らしいだろうか?
結論を言えば、釈尊の生涯は「らしさ」に振り回される人間の危うさ、愚かさに警鐘を鳴らした生涯であったのだと思う。他の動物や植物や無機物にはない、人間をして人間たらしめている様子、癖、行動様式のようなものは今更言うまでもなく確かにあるだろう。その余りにも複雑多岐な人間らしさに神様さえ手を焼いているのではないかと思われるほどだ。卑近な日常生活の中の知情意に纏わる人間らしさ。集団や国家、主義・主張・正義などに及ぼす人間らしさ。大なり小なり、陰に陽に、宿命のごとき「らしさ」の現実がある。

「考える」作業は人間らしさの最たるものであろう。そのような謂わば「頭の世界」という人間の特権が齎す現実がある。その特権が築いた文化文明を手にしたその行動範囲は無闇に自由自在で、そして危うい。その特権が構築したバベルの塔からの展望は無闇に明るく広く、そして殺風景であり、寂しい。奈落のような冷やかな世界それは神様の真似をして行き着いた果ての「人間らしさ」の生み出した風景である。「頭の世界」が「頭の世界」だけでは留まらず、形あるものとして結果となる。思えば不思議なことではある。神も仏もないのか、と現実を嗟嘆するのも「ないものをあるもの」として来た「人間らしさ」の様子である。

「人間らしさ」、それは猫が猫らしくあるように、糸瓜が糸瓜らしくあるように、他にとってかわることが不可能なように見える。しかし、人間の「らしさ」というものは、極めて自然にとっては画期的にして不都合な、前代未聞にして自家中毒的な能力のようにも思える。人間のいのちは、人間の命らしく自然に反応してきたのには違いない。今後も人間は「人間らしく」生きて行くことであろうし、生きて行くしかあるまい。
人間の「らしさ」「特権」は確かにある。然し、「人間らしさ」を越えたものを志向するのも又「人間らしさ」の為せるところではあるまいか。願うことなら、特権が凶器となり、「らしさ」が人類の墓穴を掘ることにならないよう祈るばかりである。









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