再生への旅

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zoom RSS 同胞の淋しさ

<<   作成日時 : 2012/03/07 03:40   >>

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同胞はみな散り散りに鳥雲に 玉宗

檀家さんではないのだが、長年行方知れずの弟と再会した方が居られた。御当人は80歳を越えられた長男である。音信不通だった十歳下の件の弟さんが発見されたのは県内の病院のベットの上であった。余命いくばくもない状態での再会だったそうで、ほどなく息を引き取られた。故人には身寄りがなく、若いころに別れた奥さんとの間に一人娘が居るそうだが、関わり合うこともなく、一人で生きて来たらしい。放蕩息子だったらしく、兄弟たちの鼻つまみ的存在だったのだろう。それでも、人生の終末には故郷の近くに戻っていたらしく、偶然病院を訪れた長男の息子さんが発見したらしい。

長男である知人は弟の遺体を引き取ることになるのだが、棺を置くには自宅も狭く、隣近所へ憚る気持ちもあるようで、何かと不都合があるらしかった。そこでお寺に安置し、家族葬といった形で弔いたいと申し出があったのである。葬儀屋に依頼するでもなく、病院の遺体安置所からお寺に遺体を運び、棺を手配、納棺したのも後期高齢者ばかりとなった兄弟たちである。都会では葬儀も上げない「直葬」というものも偶にあるらしい。先日も、お坊さんのお経も上げず、生前に自分で唱えたカセットテープのお経を流して済ました俳優がいたが、能登のような地方では、まだ葬儀が「宗教儀礼」としての面目を保っているのだろう。簡素ながらも、仏教式の葬送供養を依頼された。

兄弟は他人の始まりとは言われるが、同胞であるが故に、甘えることを遠慮する気持ちがあることは事実である。同胞が頼り甲斐があるとは限らない。肉親と雖も心の通い合いが通底になければ話しにならない。所帯を持った兄弟の世話になることは二の足を踏むものであろう。

私は女四人、男二人の六人兄弟である。
出家するまで、妹を覗いて上の、兄や姉に何かと世話になったものだった。その辺は図々しいかったようで、義兄や義姉に遠慮することもなく平気で居候を続けていたりした。そんな私の同胞も、長兄、長姉が亡くなり、北海道に住む姉、妹と埼玉に住む姉夫婦の四人となった。父と母は既に他界している。この世に血のつながった兄弟が居なくなるというのも不思議な感覚である。解放されたかのような気分と、何がしかの淋しさ。

それもこれも同胞間にある潜在的な生存競争の為せる業なのかもしれないと思ったりしている。いずれにしても、今生の一期一会の巡り合い、ご縁である。葬送の縁も、わが人生の、ありのままの授かりものである。全てを受け入れて生きる。それが仏道の本義ではなかろうか。そのような心持、真心で以って供養をして戴きたいものである。合掌







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