再生への旅

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zoom RSS いのちの実相と未来・その2

<<   作成日時 : 2012/04/18 04:11   >>

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花冷の枕に残る訣れかな 玉宗

宗教家が社会の不条理や困難に苦しむ人々に向かい合い、支え合うとはどのような生き方、アプローチをいうのだろうか?

東日本大震災に被災して、今もなお不如意な暮らしを余儀なくされている多くの被災者がいる。何もしないよりはマシであるが、人権問題として組織的に取り上げ現実的に対処することで解決できる問題とは何なのだろうかと思わないではない。私が危惧するのは、様々な社会問題に対応する独自な宗教的決着点といったものがあるのではないかということを言いたいのだ。

人生には時に不意をついてこの世の真相を知らされることがある。
人と自分との違いを知らされたり、自分が敗者であることを認めざるを得ないことになったり、天災人災を被ったり、行き詰まりの現実にお手上げになったり、自己のどうしようもなさに打ちのめされたり、、、劣等感や絶望感に身も心も苛まれ、辛く、苦い思いに足掻きまわったりする。自己のいのちへの実相を受け入れることへの抗い。そして虚しさ。

然し、それら人生の有為転変、諸行無常を全て自己の人生、いのちの風光として受け入れることが出来るようになると、なんともない地平が開かれたりもする。それは自分の身の丈を知り、心模様を知り、現実の空なることを知ることによる平安である。人生の窮地は新たな地平を臨む展望台でもあり、分れ道でもあり、飛躍や再生への機会でもある。諸行無常は人情で割り切れないほど、その脚力には容赦がない。同時に、執着することの愚かさを如実に教えてくれる救いでもある。

自己の内外の世界への思い込みや執着による停滞は足元を危うくする。卑屈になるにしろ、傲慢になるにしろ、絶望するにしろ、或いは有頂天になるにしろ、今、此処に息をしている私の素の命は、そんな自己評価や正義感や常識や欲望を置き去りにして、実になんともないあり様である。私がいてもいなくてもなんともない世界がある。
失敗したことも、地団太踏む思いをしていることも、思い通りにならないことも、「私」に拘る事の虚しさ、それは夢幻のごとく、泡の如きものである。そのような頼りない事象にいのちを振り回されるなんて如何にも悔しいし、間違っている。

私の依るべきところは何か?
私の未来とは何か?

水が方円の器に随うが如く、滞ることのない命の実相。そのような諸行無常の可能性に満ちた今を生きること、そこにしか命の未来はないのであり、それこそがわが命の自立の現場ではなかろうか。

私の命は私の思いという都合を越えていつも初々しく新鮮な筈である。自己を再生するのに、誰に遠慮することも要らない。人生は倒れたところからしか立ち上がれない。いつも、どこでも、ただひたすらに、そのような次第の「今、わがいのち、縁」を戴いて生きていきたい。
どっちへどう転んでも我が命、というような自覚と日常底の共有。
それもまた宗教者として被災者や困窮者に指し示し、自ら実践しなければならない「向かい合い、支え合う」ことの本質ではなかろうか。

一寸先は闇である。それを光として転換せしめる「仏道」という「回向返照の関わり合い」が求められているのであることを忘れたくない。

<続く>








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コメント(2件)

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夜明には雨の重たき花蘇枋   よし
yoshiyoshi
2012/04/18 07:09
yoshiyoshi樣。
花蘇枋ですか、たしかに、たっぷりとした花の着きようですね。
市堀
2012/04/19 20:20

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