再生への旅

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zoom RSS 「悲桜」を想う

<<   作成日時 : 2012/04/22 04:07   >>

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生き死にの光りの中を囀れり 玉宗

お寺の畑作務をしていたら、桜の落花が畝に舞い込んできた。
昨年よりは花が少ないのではと夫人がいっていた今年の桜。もう風に散り始めようとしている。耳を澄ましていると、蜜蜂であろうか、お坊さんの声明のように低く唸るような声が一本の桜の木を覆っていることに気付いた。見れば、数えきれないほどの小さな蜂が青空の元で桜の廻りを飛んでいる。

桜には青空が似合っているが、それも人間の喜怒哀楽の反映であろう。
先日、福島の立ち入り制限区域の桜並木が放映されていた。自分達を愛してくれた人達が居なくなっても、桜は何事もなかったかのように満開の花を咲かせていたのには胸が詰まったものだ。木々の健気さを感じた視聴者も多かったことであろう。

ところで、先日、私も参加した写真俳句みんなのブログit句会で次のような俳句が出されていたのを思い出した。

悲桜を詠みてひと年経ちにけり  鎌ちゃん

「悲桜」という造語が新鮮であったが、今現在の桜を詠んでほしいということで、特選ではなく並選にしてしまった。然し、改めて読み返してみると、粛々とした作者の被災地へ寄せる思いが伝わってくることに心動かされた。天災、人災への怒りと諦念の様な心情が語らずして語られている。ここにも俳句の醍醐味、真骨頂が働いていることを再認識させられた。

この一年、私たちは被災者や被災地の為に何をしただろうか?俳人は挙って「震災詠」とやらを発表しているが、畢竟自己満足の誹りを免れまい。自己の無力を知らない俳人に被災者の心に響く「震災俳句」など出来るはずがない。畢竟、芸事の日暮らしである。真に被災地へ寄せる心があるのならば、芸に名を借りた支援などを止めて、自らの手と足で汗を搔き、智慧を絞るに越したことはなかろう。偽善者とは何もしなかったのに、何かをしたかのように本人が錯覚していることを言うのである。それもこれも自分持ちの物差しでものごとを価値判断するからであろう。

政治も経済も宗教も学問も芸術も、そのような無私ならざる偽善者の世渡りの為の言い逃れの道具に成り下がってはいないか?

福島の「桜」はただ咲いている。それが哀しい。






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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
諦観を人に知らしめ桜散る  よし
yoshiyoshi
2012/04/22 04:16
 心に突き刺さる厳しいお言葉です。
何もできないしていないことも辛いですが、すればするで又辛い、自分自身を楽にしたいが為の支援であってはいけない・・・と思ってはいるのですが、芸人が芸を持って励ます、或いは歌手が歌をもって励ます、これでいいのかと問いながらです。
其処にも甘えがあるとのことでしょうか。
 私は原発廃止への動きに連なりたいと思うばかりで、人としての限界を痛感し、時々救われた命が厭わしくなります。
 行きつ戻りつの心情を、散り果てた桜の木の下に置いておりますと、根元に育つ小さな葉(ひこ生えと呼びますか?)の柔らかさに、胸がジ〜ンとしてきます。
みどり
2012/04/23 23:59
yoshiyoshi樣。
まさに一句の通りですね。

みどり様。
少し言葉が先走りしたかもしれません。
人は誰しも、今、戴いているご縁の中で精一杯のことをすることしかできませんものね。
無私なる生き方が大事かと思っております。

市堀
2012/04/24 08:20

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