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zoom RSS 「無縁社会」再考

<<   作成日時 : 2012/04/24 04:00   >>

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見てごらん嘘の吐けないチューリップ 玉宗

東日本大震災前に「無縁社会という幻想」という記事を書いたことがあるが、もう一度取り上げてみたい。震災後、「絆」という言葉が注目されるようになり、日本人の中にある「縁」という概念、或いは「縁」という情緒、「縁」という感性について再考してみたいと思ったからである。

「無縁社会」ということが問題化されたということ、それも社会的問題として取り上げられたのであるが、孤立した生活を余儀なくされる社会の歪があることを否定はしない。だがそれは人類発生以来の生存競争の態様でもあり、戦後日本が理想化してきた「個であることのパラダイス」が幻想であることの一事例でもあろうと思わないではない。或いは又、人にはだれでも孤独になる権利があるという申し分も、孤独では生きられないという前提条件があるからこその言い分である。いづれにしても権利とは存在の反面しか語っていない。

考えて見れば、「無縁社会」の四文字が、「縁」の在り樣が個人の賭け引きや都合や当ての領域を越える矛盾を語っていないか。この言葉自体が「縁」が「社会的なもの」であることを証明している。「有縁」も「無縁」も社会的事象であり、人が生きるとは「陰に陽に関係し合う」という「様々な反応態」であることを今更のように表裏から示唆しているのではなかろうか。

認識するしない、認識していた、していなかったに関わらず、私たちは個でありつつ集合体としての存在であることを免れない。孤独に苛まれ、もがき苦しんでいる人が目の前にいたとして、彼に手を差し伸べ心通わせようとすることがごく自然な振る舞いでもあり、或いは大きなお節介になることもあろう。無関心を装う事が相手の為になることもあろうし、なんと言われようがお世話を焼くことが相手を救う糸口になる可能性もあろう。それもこれも「縁」というものが本来的に人の力量を越えているからではないか。

「絆」を言挙げするようになったのも、大震災という「想定外」の「事象」によって「現実」の「真相」をこれ見よがしに突き付けられたことを意味していよう。喉元過ぎれば熱さを忘れ、「絆」を「柵」として忌避し、孤立への道を歩んではいなかったか。そのような自責の念さえ浮かび上がらせた今回の震災ではなかっただろうか。

無闇に「絆」の共有を云い募り、或いは無闇に「孤独」の権利を主張する。どちらも危ういことに変わりはなかろう。人にはどちらか一方に偏り易い癖がある。傾いていてもいいから支えられていたいといった本能的感性があるのだろうか。背筋真っ直ぐ中庸でいることの難しさ。

有縁も無縁も私と云う人間の命の実相である。有るといえば有るし、無いといえば無いといって一向に差し支えがないものである。それは息を吸ったり吐いたりしている今の事実と同じ、眼前の端的な事実であり、ここを置いて何処にも逃げようがない。「縁」は「有無」の執着さえ飛び越えている。繰り返して言うが、それは道徳とか倫理とか諦念といったようなことではなく、今ここの、命の事実であるということ。命生きる私の人生とは、そのような「縁を生きる」ということに他ならない。それ以外のどこに人として生きることの恩恵があるというのだろうか。

現在、社会に取り沙汰されている様々な社会的問題の背景、底流、原点には人間社会はもとより、生きている私の命、又は命生きている私という「縁」の実相に関わるバランス感覚が試されているように思えてならない。真実個に徹してこそ解決できる社会的問題というものもあるのではなかろうか。








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吉運は海より至る磯嘆   よし
yoshiyoshi
2012/04/24 04:24

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