再生への旅

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zoom RSS 田植えと仏道

<<   作成日時 : 2012/05/13 04:11   >>

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人が植えし早苗の風を見て歩く 玉宗

能登の田植え風景は五月の連休前後から始まる。まだ水を張った代田状態も所々に見られるが、二、三日前から季語では「代田寒」と言われるような肌寒い日が続いている。この頃の季節のにはよくあることなのだろう。油断したのだろうか、夫人共々、少々風邪気味である。

それにしてもつくづく思われるのは「稲作」の奥深さ、手間の掛り様である。お米ほど手間を掛けて人の口に入る植物があるだろうか。日本の稲作は又、国外と違ってその国民性から言っても几帳面な作業が確立されていることが察せられる。偶に垣間見るその仕事ぶりなど、私にはとても「食べ物」を作っているとは感じられないほど体系化されているように見える。「家畜」ならぬ「家植」という言葉があるのだとしたらお米はその筆頭だろう。

それにしても他人事みたいで申し訳ないが、嘗て稲作農耕文化であった日本の稲作の様子もここにきて随分と変貌、変質してきているのではなかろうか。
私の知っている能登のお坊さんで仲間と共に農業をしながら仏道に励んでいる方がいる。山の中に入ってもうかれこれ30年以上も経つのではなかろうか。今では限界集落寸前の農家の休耕田を何枚も借り受けて専業農家並のお米を作り、購買のルートを確立しているのだから大したものである。無農薬栽培っていうんですか、拘りの逞しい自然農法だそうで、一度貰って食したことがあったが、確かに美味かった。仏道とお米作り。繋がりそうもないが繋がっている。

これもまた30年以上も前の話になるが、兵庫県浜坂の久斗山に伽藍を構えている「安泰寺」に厄介になっていた頃、生れて初めて「田圃」に関わった経験がある。一日中下を向いて苗を植える作業では、腰が痛くなるのは当然だが、瞼が腫れることを覚えたのもその時である。一番草、二番草・・と水田に入って草を取る作業に気が遠くなるような思いをしたことだった。畦や湿地の草刈りで機械の操作に誤り怖い思いをしたのを今でも忘れない。それでも作務の合い間に畦に坐り込んで仲間と語らう爽快感は格別であった。

安泰寺では作ったお米を玄米食として使用していた。玄米を三度三度食べ、その味わい深さを知ったのもあの時以来である。お米が主食。かつては日本中がそうであっただろう。日本人が生きている環境の中で齎された主食であるお米。食生活の中で「主」になるものがあってこそ、様々な副食文化が生れたとも言えないか。

自炊自活の暮らしであった安泰寺では、短い期間ではあったが修行者として自立して生きていく人間が居ることを知り、少なからずのカルチャーショックではあった。修行とは自己を確立することである。自己とは何か?参禅とは何か?といったような初心の方向性に、少なからず目覚めさせてもらったのも安泰寺での体験が大きい。
それやこれや、農業と仏道といった日常が食べることと仏道を学ぶことが切っても切れない、命一枚の上での大事な要素であり、生きることの実感が仏道の要であることを垣間見せられたことでもあった。

今でも、安泰寺では往時と大差ない暮らしぶりの筈である。食に於いてお米が主であるように、彼らには生き方の芯が仏法である。そのような仏道者としての軸がぶれないからこその今日までの歴史であり、今の彼らの輝きなのである。稲作に負けない仏道の綿密さがそこには脈々と受け継がれているに違いない。








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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
夏花負う子供の如き僧の笑み  よし
yoshiyoshi
2012/05/13 07:23
yoshiyoshi様。
夏花ならまだ笑っていられますが、人生の荷物は御免ですわ。(笑)

市堀
2012/05/14 21:25

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