再生への旅

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zoom RSS 「明るい農村」ならぬ「明るい納骨」

<<   作成日時 : 2012/05/14 04:07   >>

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俗名の母が恋しい日なりけり 玉宗

昨日ツイッターで呟いた感慨を点検してみたい。
あるお檀家さんが中陰のお勤めが満願し、亡き母の遺骨をお墓に納骨することになった現場でのこと。昔、NHKの早朝番組で「明るい農村」というのがあったが、謂わば「明るい納骨」とも言うべき空間について考察である。

能登でも輪島では木箱に詰められた遺骨を墓穴に空けることのが一般的である。所によっては骨箱ごと穴に入れることもあるらしい。いずれにしても、遺族たちが故人の遺骨を手に取り、ああでもない、こうでもないと言いながら墓穴に埋めているの様子はどこか密やかにして、微笑ましく、あたたかく、そして妙にあかるい。
そんな不思議な空気に包まれている。あれは何なのだろうと以前から気になっていた。単なる感傷か、はたまた他人事であることの気易さか。感傷にしても何にしても、無防備にふつふつと湧きあがってくるものがあることは誤魔化せない。

「白骨」とは「死」という実態の端的である。それを目の当たりにしている遺族にある戸惑いや忌避感、そして諦め。あれは、命の実相が「生」だけではなく「死」と表裏一体の事実であることを受け入れようとしている人間らしさの様子なのであろう。命の実相だけが人を謙虚にする。
生きていくということは故人の血や肉や骨をわがものとして受け継いでいくことに他ならない。その逞しさこそが遺族の遺族たる所以なのではなかろうか。生きていく力、それは「死」の宿命を逍遥と受け入れていく人生の学びの中で培われていくもののようである。

誰に遠慮する事もいらない。先祖の命を戴いて今の私がここに生きている。命が切れながらも確かに繋がっていると実感する瞬間と言ってよい。納骨の現場。あれは諸行無常の流れに生者死者が共に棹さしている彼岸の明るさなのかもしれない。生きている「今」のリアリティーが漂っている。大事な時間だと思う。








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コメント(4件)

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雨予報ただひたすらに散る夏椿  よし
yoshiyoshi
2012/05/14 04:54
 昨日のいとこの納骨はまさしく「明るい納骨」でした。葬儀にはお坊さん方が12人いらしてくださってました。いとこはお寺の”おばさん”としての役割を努めていたのがよく分かりました。檀家の方々がたくさん見送ってくださいました。
 我が地域は骨壺は陶器が多く、そのまま納めます。父母の時は、器から出して骨だけ納めました。父母が一緒になってほしい、と思ったからでした。
                  合掌
くろちゃん
2012/05/14 07:08
遺骨を直接土に埋める場合があるということですね。それなら納得できます。東京でも静岡でも、都市の墓地では骨壷を石室に入れるだけです。あれで人を葬ったことになるのか、ずっと違和感がありました。
志村建世
2012/05/14 23:29
yoshiyoshi様。
夏椿も咲きだしましたか。お寺はまだですね。

くろちゃん様。
陶器もあるようですね。石川でも金沢では確か陶器でした。いずれにしても「お骨」を粗末にしない風習は残って欲しいですね。合掌

志村様。
昔は一般人は「土葬」が多かったようですね。高貴な方や殿様は火葬や棺で埋葬されたのでしょう。
「土に帰る」といった感性は万人共通と思いますが、そうでもないのでしょうかね。
命の永遠性を望む人間の心理こそが永遠ではと思ったりします。
合掌

市堀
2012/05/17 21:21

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