再生への旅

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zoom RSS 拝啓、良寛様。「行」という一人旅

<<   作成日時 : 2012/05/15 04:05   >>

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梢吹く風や安居のまどろみに 玉宗

拝啓、良寛様。

能登も若葉の眩しい頃となりました。

お寺の「花祭り」を控えて夫人共々、蜂が花を嗅ぎ回るように準備に駆けずり回っています。
弟子の孝宗が僧堂へ安居してもうすぐ2カ月になろうとしています。今のところ、なんとか初体験の修行に耐えているようです。

当初は師匠であり父親でもある私の方が身も心も落ち着かないありさまでした。彼が上山してから今日まで、出来得る限り僧堂での彼の日常と同じように過ごしてきたのも、そうすることが愚かな師匠である私にとって、弟子の修行の無事を祈る唯一の形なのだと思って参りました。弟子の弁道安穏を祈ること。それは師匠である私の仏道の歩みを後押ししたり、引っ張ったりする力となっています。

そうではありますが、思えば、修行は本来、自己を諦める人生の一大事。弟子はお寺のためにでも、師匠のためにでも修行に上がったのではありません。
一年、三年、十年、いつ帰ってくるとも知れぬ我が子、わが弟子を待っているの図はまたこれも愚かさの極みであります。ひとたび、僧堂へ身心を預けたそのときから、彼は自己に出会うためのひとり旅に出たのであり、師家という指導者の元で煮て食うなり焼いて食うなりされても構わない代物となったと言わざるを得ません。

弟子を持ったからと言って仏道が広くなったり狭くなったりする訳でもなく、「犀の角」のように白道を歩むばかりです。「同行二人」とは弟子や家族と一緒という事ではありません。仏道はどこまでも自己を極めんとする道程であり、仏法というもう一人の自己と共にある、あらねばならないという修行者の覚悟の実際を表しているのには違いありません。

仏弟子である覚悟とは、一生に亘ってそのような「同行二人の一人旅」に精進する不退転の決意であり、そのような志意気を育てるのも修行の眼目の一つでもありましょう。そこにしか禅僧の救いも決着もないということをここに至って改めて知らされている始末です。私が親や師匠の為に出家しなかったように、彼も又、本当の自己に巡り合うために、もう一人の自己に再生するために、誰に遠慮なく生きてほしい、生きねばなりません。

今日も孝宗が鳴らしているかもしれない「鐘の音」を聞きながら、そのような禅僧として当然の覚悟を新たにしている愚かな師匠の私でございます。合掌








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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
面白や下着から脱ぐ竹の皮  よし
yoshiyoshi
2012/05/15 07:21
yoshiyoshi様。
あれは下着だったのですね。(笑)
市堀
2012/05/17 21:23

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