再生への旅

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zoom RSS 興禅寺お花祭り・いのち一大事

<<   作成日時 : 2012/05/17 04:06   >>

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灌仏や命切なく濡れゐたり 玉宗

五月十六日は興禅寺の「釈尊降誕会・お花祭り」でした。今年は再建後三年経って新調できた花御堂のお披露目ということもあり、町内の保育園児にお参りしてお遊戯を披露して貰った。お寺から心ばかりのご褒美。檀信徒の皆さんにも楽しいひとときを過ごしていただいた。檀家のお年寄りの皆さんと保育園児らにお参りして頂いたわけだが、云わば「厭になるほど生きて来た方々」と「好きなだけ生きていく子供たち」とが同席したかたち。然し、どちらも「今の命の一大事、正念場を生きている」のには違いない。ということで皆さんに紅白のお饅頭を上げました。

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釈尊誕生に当たっての天上天下唯我独尊はよく知られた言葉。これは命への讃歌であり、畏怖であり、勿体なさであり、奇蹟への驚きであり、不思議さであり、釈尊が自問自答の果てに悟り得た命への大いなる「?」であり「!」なのであると受け止めている。そしてそれはそのまま仏弟子となった私の「一大事因縁」なのであり、そうでなければ私の生きて行く意義は雲散霧消してしまいかねない。

「生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり」とは道元禅師のお諭しである。
人生の一大事と言えば「命に関わること」と誰もが答えると思うが、関わり度合いによって、その慌てふためき方、対処の仕方などが様々に展開されることが予想される。
生きるか死ぬかの切羽詰まったこともない人間にそのような自問自答など戯れに過ぎないと云われそうであるが、果たしてそのように突き放されて、それで事が済むようなことなのだろうか。

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「人生の一大事」それは人間だれもが担っている生来の前提条件なのではなかろうかと思っている。そして、それは他者から責められるものではなく、いつもどこでも自己の事として捉えられていなければならない。苦にあろうが楽にあろうが、出家だろうが在家だろうが、悪人だろうが善人だろうが、迷っていようが悟っていようが、老若男女に関わらず、命は自己の一大事因縁を戴いて生き死にしている。

それは他人事ではない私自身の覿面の正体なのである。私自身が私自身に決着できなくて、どうして人の命を独尊として受け入れることができるだろうか。生れて来たことだけが尊いのではない。私は命という尊い答えと共に生れ、生き、人と出会い人と別れ、人として生き仏弟子として生き、そしてやがて尊い命の実相として死んで行く。

私の信仰とはそのような命の一大事をわが人生の因縁として生きていくだけのことであり、生きる醍醐味であり、意義でもあり、永遠に繋がる唯一の歩みだと肝に銘じることに他ならない。





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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
山桜桃明日に命を託す花  よし
yoshiyoshi
2012/05/17 04:15
こんばんは。
子供とお年寄りのいる風景、いいですね。
昔は当たり前の風景だったのに、、、
いたわりの気持ちや命の大切さが子供にも芽生えると思います。
義母も息子達に生き死にのお手本を教えてくれたと思いますよ。
ルフレママ
2012/05/17 22:13
yoshiyoshi様。
花も実もあるのが人生ですよね。

ルフレママ様。
このような情操教育の現場を教育界はどう思っているんでしょうね。宗教分離で済ます事ができるのかと思っている私です。
市堀
2012/05/19 20:52

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