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zoom RSS 親の愛情、子の愛情

<<   作成日時 : 2012/05/20 04:09   >>

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玫瑰や墓域の如く光る海 玉宗

親子間の愛情とは、どちらも無条件に理解され、受け入れられるものと思い込んでいた。然し、遅まきながら、どうもそれは安易で非現実的な甘い認識であることに気づき始めている。子を持つ親になって大分経つのだが、その愛情の異質なることを知らされている昨今である。われながら、那辺の事情に鈍い人間ではある。

顧みて、親の存在が無性に疎ましくなるときがあった。一方で親の愛情を信じて疑わない、当然のものであるという理由のない思い込みがあった。まるで生まれる前からそうであるような思い込み。その愛情は又、憎悪と表裏一体ではないかとさえ思われるほどの不純さと無知と偏見に満ちていた。無性に愛しく、無性に嫌悪される存在であった親の存在。存在そのものが愛情と嫌悪の象徴であるかの如く。

子が親に寄せる愛情というものは、どこかで恐怖感を伴っているのかもしれない。人生で出遭う最初の未知なる存在である故に全幅の信頼を寄せ、未知なる故にその不可解さに怯えているかのようでさえある。子という自立できない命の揺れ。親への愛情は一体である筈のものの中に異質なものを見出し、その上でそれを受け入れ、乗り越え、脱皮しなければならないための苦い薬のようなものかもしれない。親子間の愛情に自己中毒するわけにはいかないのだ。子は先ず親の存在を否定することが自立の一歩なのかもしれない。それはまるで社会性という免疫をつくるための自傷行為のようでさえあるが、極めて健全なことなのだろう。

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一方、親の子に対する愛情は、自己の占有物への煩悩に似ている。思い通りにならないことは子を産んで間もなく知らされている筈であるが、親は子を持つことによって盲目になる。自分の庇護に置かなければならないという使命感がそうさせるのだろうか。そうではあるが、親にとって子の存在は神から与えられたものでありながら置き去りにしなければならないある種の絶望・失望・喪失である。それは私的財産ではなく公の宝のようなものなのである。血肉と雖も自己を生きるのは自己であり、親と雖も子の人生の主体性を奪うことは敵わない。

子には生の勢いが確かにある。親が子に与えるべき愛情は、彼の生の勢いの障碍となってはいないか。子の命は親の命と同様に無反応な代物ではなく、恣意に任せて操作できる筋合いのものではない。分身ではあるが、全くの別物である。子が私でないことは明らかだ。親は子から離れることによって自立を促すといったことは人間にとっても真実に違いない。

親にとっても子への愛情は無償にして無性なるものである。そうではありながら、否、そうであるからこそ、子の愛情を失う事は子の存在を失うことと同義であり、分身である子の存在の欠如は自己の欠損でもある。親子と雖も、人生や人格は共有できないが共感はできる。人間への思いやり、いのち哀れむこころ。そのような情緒、感性は、異質でありながらも分身であるという親子間の情愛を学ぶことに因って育てられてゆくものではないだろうかと思ったりする。

神様は家族という学び舎を創った。親にとっても、子にとっても、愛情もまた学ぶものなのだ。







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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
子が帰りすぐ電話する祭り笛  よし

何だかんだと用事もあらへんのに。
yoshiyoshi
2012/05/20 07:38
shiyoshi様。
子は親の脛を齧り、親は子の顔を舐める?!『^^;
市堀
2012/05/23 04:16

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