再生への旅

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zoom RSS 出家の本懐・生死と向き合う

<<   作成日時 : 2012/05/23 03:48   >>

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遺されてこの世に夏花摘む倣ひ  玉宗



さて、お坊さんが人様の役に立つ領域とはどのようなものだろうか。自分の問題として確認して置きたい。出家の本懐といったようなもの。それは外でもない昨日の現職研修会の体験の中で思い出したように湧きでた自問なのである。

今回、宗門の現職研修会の内容は、「人々とのこころに向き合うために」というテーマに添った実践編といったもの。苦悩する人のこころに向き合い、寄り添い続ける為の実践技術と意識の向上を目的としている。
昨年の東日本大震災の被災者への寄り添いは勿論のこと、年間三万人を越える自死者の遺族への寄り添い、一人暮らしの高齢者や無縁社会の中で孤立している人達へのアプローチの在り方として、宗門挙げての取り組みがなされていることを改めて知った次第。

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例えば、「傾聴プロジェクト」と呼ばれる相談者への対応があり、今回の研修も、理想的な「傾聴」を模擬的実践を通じて、現役住職に体験、習得させたいと云った試みなのである。私自身も参考になり、認識を新たにしたことである。宗門としての「傾聴」の「成果」や「点検」、そして、それらをして檀信徒への「布教教化」の一助とする。それは結構な事であり、否定はしない。然し、話がそこで終わってしまっては身も蓋もないし、世間相場の倫理道徳で終わってしまいかねない。

相談をする人と相談を受ける者。お坊さんは勿論受ける者として期待されていることを前提として話を進めて行くのであるが、それにしても「相談の現場」「傾聴の現場」といった生の空間にはロールプレイでは味わえない雰囲気があるものだ。そしてそのような現場では、相談する方も、される方もそれぞれがそれぞれの立場といったものを試されていることを感じている。お坊さんは「傾聴」という「行」によって自己の力量が試されているに違いないし、そうでなければならない。回向返照が相談を受けている側を照らし出さないでどうして真に宗教的寄り添いが叶うだろうか。

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自死の遺族への「傾聴」「寄り添い」もまた同様である。そこにタブーはない。相談する方も自分が傷ついていることを心を開いて認めなければならないことに気づいていることだろうし、そうでなければならない。相談される方も「自死の傷口」を逆撫ですることを畏れる余り、相談者の傷口に目を瞑るようなことがあってはならないだろう。逃げ腰であってはならない。「生死の問題」に向き合う事が出来なくて、お坊さんは社会のどの領域で役に立とうとしているのだろうか。

そのためにも相談を受ける側のお坊さんが自己に、自己の生死に決着が着いているに越したことはなかろう。それは「傾聴の技術」を越えた人間力そのものであろうし、仏道者としての仏力であろう。お坊さんは「僧侶の技術」を習得することも大事であるが、「人間力・仏力」を養うことを忘れてはならない。そのためにも、一にも二にも、わが事として生死と向き合う姿勢が欠かせないのではなかろうか。それは住職と言う肩書きや布教教化といった成果とは別次元の問題である。

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いずれにしても私の側に余所から借りて来たものではない「宗門の安心」というものが提示出来なければならない。それは外でもない。「行中に立つ安心」と云ったものであろう。坐禅だけではない。日常の行住坐臥、運水搬柴、全ての威儀進退、生死の真っ只中に「ぶれないもの」を見出すこと。これ以外になかろうと私は捉えている。禅僧は心理カウンセラーではない。心理の操作で安心を得ようとするものではなかろう。この五体を挙げて、世界と一体となるといった離れ業なのである。身も心も捨てて浮かぶ瀬があるとは、絵空事ではない。実相である。実相だけが迷妄を破る。

住職一人一人が、生を自己に返照し、死を自己に返照する。迷中に行を立て、行中の覚に触れる。それが出来なくなった時、宗門は間違いなく衰退するだろうと私などは時代認識している次第である。

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自らを大愚と号した良寛は、昼行灯とか阿呆のごとく村人に呼ばれ、仏法のぶの字も語らず村の子供らと鞠を搗いて遊び、月夜の強盗には知らん振りを決め込み、墨が無くなれば空に向かって筆をなぞり、庄屋の放蕩息子には涙をもって諭された。そこには仏法とか世法とかの垣根、権威、タブーがない。世界と一体であるような、世界とぶっ続きであるような、求心とか救済といった引っかかりがないのだ。迷中又迷の大鉄漢なのである。

のびやかに、ひろやかに、しなやかに。そして、たくましく。ひとりごころに徹したその姿が、多くの名もなき民の魂を救った。われを空しく生きることの厳しさ。あるがままに生きることの難しさ。そして、なんともなさ。良寛には間違いなく自己の生死に決着がついている。

そのような出家の本懐を私も遂げる事が出来るだろうか。






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コメント(2件)

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朝に夜に苗を見回る濁り鮒  よし
yoshiyoshi
2012/05/23 07:12
yoshiyoshi様。
確かに、そういう風に見えます。
それが鮒の生死に向き合う日常ですね。
市堀
2012/05/28 20:15

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