再生への旅

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zoom RSS 自灯明・法灯明/本末転倒の世相

<<   作成日時 : 2012/05/26 04:09   >>

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あえ吹くと翁が立てる礁あり 玉宗

この世の事象は大概行き先があって行き方が決まるものである。その逆はありえない。
今日の物質文明社会は、金と経済が人生の最優先課題となり、金や経済が目的化され、金のために人の命に保険を懸けて殺害して金を手にするといった事件が起きたりする。人生を創造するための衣食住や経済であったものが本末転倒しているのである。
私はどっちを向いて生きて行くか?行き先を「いのち」としたのが仏教である。釈尊が末期に臨んで弟子たちに諭された遺言は「自灯明・法灯明」であった。これは言うまでもなく、人生の究極の拠り所、方向性を指し示した言葉である。

自らの内外にある灯明・真理を見ようともしない現代社会。その縮図は今日の仏教葬の現状にも表れているのではないか。斎場は故人の遺影中心の祭壇を飾り、故人とのお別れ会か偲ぶ会の様相を呈している。誰もそのことを疑わない。ご本尊などどうでもよいといった有様である。お寺での葬儀をしなくなった影響がここにもあろう。だれも後生の行き先のことなど本気で信じていないかの如くである。

灯明である永遠の命こそが行き先である。それが想像できない現代人。想像力が乏しい人間は行動に移らないもの。宗教的安心・彼岸のイメージが描けないのは、人間の理性を拠りどころとし欲望を是認しているからである。欲望を最優先とする社会に仏教は中々育たないのではなかろうかと思ったりする。

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「人は何のために生まれたのか?生きている目的とはなんであるか?」このような「重くれた」自問さえ憚れる世の中。宗教を持つことが憚れるような社会。人は何処へ向かって「進歩」しようとしているのだろうか?行き先をはっきりとさせないままで歩いている様な観さえある。確かに、生の終着駅が死であることを人は知っている。知ってはいるが、死の定めを避けられない生の定めを学んでいるかどうかは点検すべきであろう。生死と云う始発駅も終着駅も、「永遠の命・灯明」のレールの中での掛け替えのない一度きりの通過点である。

現代社会はそのような「生の暫定値」を忘れてしまったのではないかと思われてならない。それほどに生を貪る、「生」至上主義の落ち着きのない、偏った、薄っぺらな世相が横行しているではないか。喰うこともお金も、社会を成すことも、「生死を全うに通過する」ための輝かしい手段であった筈であるが、そしてそれは太古の昔から今も変わらない真相だと思うのだが、手段がいつの間にか目的になってしまったような、行き先を忘れて無闇に右往左往しているような、本末転倒の現象に見えなくもない。諸悪の根源、そこに生を貪る欲望があることは間違いなかろう。

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生の定め、死の定め、それはどこまでも「法の定め」である。
いのちが「生と死」を必要条件とした世界であることは否定しようがない。「生」を一方的に受け入れたということは、無条件に「死」を受け入れたことに外ならない。「いのち」とは、それほどに私の都合を超えた捉えきれない、広く、深く、大きな「縁」である。それは「死後」へと続く「法」の、諸行無常のひとときの様子、本末の始終であり、初中後である。それを「仏の世界」と呼んでもなんら差支えなかろう。

仏弟子とは言うまでもなく仏の方を向いて歩いている人間のことである。生きとし生けるもの死せざるはない、そのようないのちの定めをあるがままに生きようとしている、いのちそのものが目的であり、行き先であり、帰るべき原郷であり、手段であり、方便であるということ。わがいのちはそのような永遠の灯明を志向しているにちがいない。それが私の信仰である。

貪りの世界、欲望を超えた世界、私はどっちを向いて生きているのだと自問自答しながらこれからも生きていくことであろう。








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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
狭くとも住めば都の金魚かな  よし
yoshiyoshi
2012/05/26 08:43
おはようございます
 仏弟子の生き方の例も沢山ありますね。
 今はそれを現代風に直してから着目ですね。
湘次
2012/05/26 08:47
yoshiyoshi様。
金魚は知足で生きていますな。

湘次様。
確かに、いろんなお坊さんがちと多すぎますな。(笑)
市堀
2012/05/28 20:28
和尚様お久しぶりです。
先日「自灯明法灯明」の解釈で学者の人とネットで議論になりました。
その仏教学者の人は法灯明の法をブッタの教えだというんです。
つまり仏典だと言うんです。
理屈はこうです。ブッタの生まれる遥か前からある縁起の法は他があるわけない。
なので法灯明=法を拠りところにして他を拠りところとするなとは、矛盾するので法灯明の法は縁起の法ではなくブッタの教えだと言うのです。
そんな馬鹿なことはないと思い私は反論しました。
法灯明の法とは私は智慧だと思うのです。
つまりお釈迦様の悟りは頓悟ではなく漸悟だったと私は思っているのですが和尚様はどう思われますか?
たーぼー
2012/06/24 16:01

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