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zoom RSS 『食育』についてのお坊さん的見解控・その2「持戒としての食事」

<<   作成日時 : 2012/05/28 04:38   >>

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菠薐草喰うてこの世に何残そ 玉宗

「食育(しょくいく)とは、様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てることである。国民一人一人が、生涯を通じた健全な食生活の実現、食文化の継承、健康の確保等が図れるよう、自らの食について考える習慣や食に関する様々な知識と食を選択する判断力を楽しく身に付けるための学習等の取組みを指す。2005年に成立した食育基本法においては、生きるための基本的な知識であり、知識の教育、道徳教育、体育教育の基礎となるべきもの、と位置づけられている。単なる料理教育ではなく、食に対する心構えや栄養学、伝統的な食文化、食ができるまでの第一次産業についての総合的な教育のことである。この言葉を造語した石塚左玄は、食品の与える影響に関する独自の説によって、子どもに食べさせる食品の影響によって子どもの心身を養うという意味で用いた。(ウィキペディアフリー百科事典より)」

案の定ここには「食」に関する「宗教教育」という言葉がない。まあ、今更目くじら立てることでもないが、ことここに至って、子供の教育から宗教が公的に認められていない事例を目の当たりにする。

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道元禅師撰述の「食」に関するものと言えば「永平清規」の中の「典座教訓」「赴粥飯法」「弁道法」などが宗門人には馴染みなのであるが、一般的にも「五観の偈」とか「喜心・老心・大心」などといった禅語も知られるようになっている。

「五観の偈」食事を戴く者の心得である。(市堀訳)

一 計功多少 量彼来処 : 功の多少を計り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
自分にどれだけの功徳があってこの食事が授けられたものであろうか。今戴こうとしている食材・料理にはいかに多くの人々の手数や苦労や真心が込められているかを深慮しよう。

二 忖己コ行 全缺應供 : 己が徳行(とくぎょう)の全欠を[と]忖(はか)って供(く)に応ず。
そのような次第であるこの食事を戴くに値する徳を積んでいるか、行に精進しているか、常に顧み、施主の供養に応えるように生きて行かなければならない。

三 防心離過 貪等為宗 : 心を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす。
心を悪事から防ぎ、罪過を離れんが為の宗旨は、心をくらます、むさぼり、いかり、ねたみの三毒(貪瞋癡)を離れることにほかならない。

四 正事良薬 為療形枯 : 正に良薬を事とすることは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり。
食事という仏行は、自己の身心の平安を維持し仏道を行ずるための良薬としても面目があることを忘れないようにしよう。

五 為成道業 因受此食 : 成道(じょうどう)の為の故に今この食(じき)を受く。
仏行としての食事は仏法の理想を達成し、自他平等利益の彼岸への方便であり、仏の道を成ずるために受ける持戒なのである。

「喜心・老心・大心」これは典座職の心得、つまり食事を作る者の心得である。いずれも宗教的領域の話である。つまり人にとやかく言われてコントロールされたマインドではないということ。泉が自然に湧くように自ずからなるこころの話であり、心理カウンセリングの付焼刃的な話でどうなるということではない。

「喜心」というのは喜び感謝の心。人間に生まれ、仏の教えに出会えたことへの法悦の喜び。
「老心」とは、親が我が子を思う心。典座は水やお米を見るにつけても、我が子を養う気持ちをもって調理しなさいと教えられる。
「大心」とは、山の如く高く大きな不動心、海のように広くゆったりした深い心。
簡単な仕事でもあなどらず難儀な仕事でもひるまず、非難されて失意に沈まず誉められても有頂天にならず、かたよらない心、とらわれない心、寛大な心。

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以上の如く、本来、お坊さんの「食事」の心得とは仏道を離れてあるものではない。 仏道を離れてあるものではない、ということは「食事」が貪りや執着を増長するものではないということである。一般にも謂われる「命戴くことの自覚」云々などは言うまでもないことだ。当たり前である。命戴くことに感謝する、だけでは足りない。そこで終わっては道徳教育の話であろう。仏道はそこから先の話である。命を戴き自己を戴く。命を活かし、自己を活かす。縁を生き、縁を生かす。生を生き、生を生かす。死を生き、死を活かす。前提として、自己に決着が付いている話である。

「私は何のために生れて来たか?!私は何のために生きて行くのか?!」という自問自答がここにある。喰う為に生きているのではなく、喰う為に生きていない訳でもなく、生きる為に喰うのではなく、生きる為に喰わない訳でもない。「仏道を成ずる為に」と言っている。要するに、「あるがままに」ということである。命あるがままに、あるがまま、というのが命の本来の姿。というか、本来の命はあるがままであろう。人間は厄介な事に煩悩で「あるがまま」な「命」を弄っている。それを已めないかというのが仏道であろう。

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蛙は蛙になる為に、蒲公英は蒲公英になる為に、私は私に成る為に、糸瓜は糸瓜になる為に、三毛猫は三毛猫になる為に、この世に生れ、生き、死なねばならない。「食事」とは掛る一大事因縁の必要条件なのではないか。
この根本が見過ごされてはならないし、この根本こそが「食」の「宗教教育」の意義でもあろうとかと私などは思っている。

子供とは未だ「形になって嵌っていない存在」とも言える。それは心が定まっていないと云うことでもあろう。長ずるに従って人間とは良くも悪しくも変な癖が付いて行くものである。子供には人生の一大事が何か分かっていない。何故か?一大事因縁になり切って生きているからである。分別がないとはそういうことではないか。

大人が手を掛けず、心を賭けなければ「食事の作法」ひとつでも身心を捻じ曲げてしまう。「食欲」は煩悩の最初にして最後の砦である。食欲を調えること。それがつまり「身と心を調えること」であることを現代の飽食した大人たちは知っている。だからこその今更のように言挙げされた「食育」なのであろう。貧しかった時代の「食育」とその様相は異なっているのではなかろうか。

大人こそ「食育」し直さなければならないのだが、凡そ「教育」とは、大人という教育の試行錯誤の成れの果てが子どもと言う未来の宝、可能性に夢を託すことに他ならないのかもしれない。









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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
菩提樹の咲けば嬉しき末路かな  よし
yoshiyoshi
2012/05/28 07:03
yoshiyoshi様。
菩提樹の花、どんなんでしたっけね。
お釈迦さんの死に纏わる目出度い花?でもありますね。
市堀
2012/05/28 20:32

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