再生への旅

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zoom RSS 「一如」についての考察

<<   作成日時 : 2012/05/06 04:09   >>

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惨たりし世にくわりん花咲くことをせむ 玉宗

「一如」を考察するに当たって、例えば「私は日陰者なのか、日向者なのか?」といった日頃の私的な懸念から切り込んでみたい。結論を先ず言えば、私は「日陰者であり、日向者でもある」。

仏法は「公然」の最たるものであるが、それを担うお坊さんが「公然」であってはならないみたいな日陰者の空気が私の周りには漂っていることを自覚している。そのオーラを隠れ蓑にしている感がないこともない。
それは宗教分離といった仲間はずれの話ではなく、私の日陰者意識とは、平たく言えば「目立ってはいけない」、それがお坊さんである私の生き方の一面には確かにある・・それにしてはお前は結構目立っているではないか!といった声が聞こえてきそうであるが。

で、もう一面の「日向者」であるが、凡そ天下に隠しどころなし、あからさまなわが命であることよと言った俎板の鯉的な開き直りがいつのころからかあるのも本当だ。誤魔化しが利かない世界があって、そこでは、だからこその自由自在が与えられている。お釈迦様の手のひらで生きる。「信」とか「持戒」とはそういうことでもあろうかといった矜持がないわけでもない。

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別の切り口から迫れば、私の人生、日常は職業としても、生き方としても仏道を切り離すことはできない。仏弟子であり社会人であり、師匠であり、父であり、夫であり、親であるなど様々な呼び名があるが、それとこれとは別、とった線引きが出来ないし、する理由が見当たらない。政治家が本来、公人であるか私人であるかと答えを迫られ返事に窮するのは至極当然なことであるのと似ている。命は公私の区別や呼び名で変換するものだろうか。

又、自未得度先度他という誓願に生きる仏弟子のテーゼがある。自分より先に人様を先に彼岸に渡すということ。渡ったこともない彼岸に人様を渡すなんておこがましいと懸念される向きも多かろうが、そんな気弱なことを言われても困る。私の知不知に関わらず、わが命は彼岸に生きている、というような確信、それがなくしてお坊さんの看板など上げはしない。

人を渡す事は自己が渡ることでもある。彼岸には自他の二見がないのだから当然と言えば当然。これを宗門的には「同事」という。彼岸とか此岸とか言っても、あるべくしてある。より好みするような筋合いの一大事でもないが、無下にできるような些事でもない。偏ったり、執着する因にしてはならないということだ。

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草も木も、そして人間も、日向ばかりでも日陰ばかりでも捻くれてしまいそうである。というより、命はそれぞれの力量に於いて、日向日陰に反応しているのではないだろうか。掌にだって裏表がある。裏ばかりで生きることも叶わないし、不自然極まりない。幸不幸、身心、表裏、上下左右、前後、内外、事理、善悪、凡聖、清濁、苦楽、迷悟、生死、全て一如であるのが命本来の面目である。

だからこその曰く言い難い、割り切れない人生の風情であり、諸行無常の風情なのだと思っている次第。例えば事理にしても、誰が理屈だけで生きているだろう。誰が理屈で呼吸し、飯を食い、便器に跨ぎ用を足すだろう。誰が理屈で生老病死するだろう。命は端的なものである。理屈を超越している。超越とはどこか訳の解らないところを浮遊することではない。それそのものとして決着している様子である。

日向者でありつつ、日陰者でありつつ、憚りながらも天下一品として図々しく、これからも一如という現在進行形の捉えどころのない、こだわりのない命があるばかりだ。「一如」は人生のダイナモの如くである。







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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
幾度も卯月曇を振り仰ぐ  よし
yoshiyoshi
2012/05/06 04:25

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