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zoom RSS 究極の自己満足・「知足の命」

<<   作成日時 : 2012/06/15 04:07   >>

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夏安居の始まつてゐる森の黙 玉宗

わが夫人から日頃「いったい何様のつもり?!」などといった身に覚えのない自己中的人物評価を戴いている私。「仏道的自己満足・知足の法」の真相を明らかにしておきたいのだが。

自己満足といえば、自分さえよければ端のことなどどうでもいい、狭い視野に生きる人間ということになるようであるが、それは端迷惑が非難されたり、取るに足りないということで笑われる程度の自己満足なのだろう。自己を生きるのは自己である以外にない事実からすれば、本来、自己の充実を忌避する命というものがあるとも思えない。満足の仕方に問題があるのだろうか。満足とは何か?或いは、その前提としての「自己」の定義・確立が不十分か見当違いなのかもしれない。自己とは何か?そのような前提の問題を棚上げにして人生が先走りしているのではなかろうか。

人間の欲望とは聖人から凡人まで様々である。聖人に欲望?と不審に思われる方もいるかもしれないが、欲望とは「いのち生きる力」の別名である。凡聖の別れ目はどうも「欲望の匙加減」のように見えなくもない。後先考えずその時さえ良ければそれでいいというのもあるだろうし、先のことを考えるにしてもそれってどうなんだろうというようなものもあるだろう。欲望との関わり方は様々である。死を迎えるその瞬間まで、行き詰らない、あるがままに、無為にして作為なく、差し障りのない、右往左往しない、なんともない生き方をしたいという欲望もある。要するに今、生きているわが命の絶対性の深さのままに生きていたいのである。言い換えれば世界と一体でありたいということだ。これを仏道に於ける究極の自己満足の目指すところとしよう。

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一方に生きる為に已むを得ないという名目で欲望の機先を相対的な、一時凌ぎ的な界隈の自己満足もある。そのような領域からは仏道の自己満足とは、なんと張り合いのない、詰まらない、お人好しな世界に映るかもしれない。彼岸と此岸。諸行無常の人生の流れに棹さして、自分はどちらの岸を歩いて行くつもりなのかということだ。

死を迎えるそのときも、人はそれまで自己が歩んできた満足の仕方で対応することであろうことが予想される。仏道と雖も、死を迎えるに当たっては究極の自己満足で応じるのである。究極とは「この上ない」「無上」ということであろう。無上の自己満足とは、欲望を越えた命の自己肯定であり、命の自ずからなる輝きを言うのであると思いたい。作為の話ではない。それが人生の生き甲斐にするに十分であるとする自己満足がある。

避ける事も出来ない、欲張ることもできない、遠慮することもない、比べることもできない、可能性と不可能性に満ちた、私的にして公的なる命の、自ずからなる輝き。「知足なる命」の自ずからなる様子。それを究極の自己満足としたい。







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コメント(2件)

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本当はでんでん虫という名前  よし
yoshiyoshi
2012/06/15 05:12
yoshiyoshi樣。
住めば都、名は体を表すと申しますしね。ん?
市堀
2012/06/18 16:56

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