再生への旅

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zoom RSS 禅語って何?!

<<   作成日時 : 2012/06/17 04:11   >>

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さみだれてゐるほかはなしけふもまた 玉宗

「喫茶去・日々是好日・和敬静寂・平常心是道」

ある方から上の四つの禅語を説明してほしいと依頼されている。ご本人はそれを外国の方に説明するのだそうで、解りやすくお願いしますとのことだった。「和敬静寂」が禅語かどうかも怪しいと思っている私の様な者より、もっと適任のお坊さんがいると思うのだが、態々私を指名されたにはそれなりの期待があってのことだろう。無学無才ぶりを発揮するのに吝かではないので、インターネットでも検索できるような一般的な解釈の他に市堀玉宗的解釈を述べてみよう。

先ず「禅語」とは何かといったことなのだが、

「禅語とは禅独自の趣旨を内包する語句のことで、短い一句の中に先人たちの禅の心や悟りの境地を込めたもの。禅僧、道人の、その人ならではの独自な信仰告白、心境告白は、宗教の世界だけのものでなく、むしろ悩む苦しむ世俗の中に生きる人々に知って欲しいものも多く含まれている。」

といった至極当然な定義がされている。案の定「禅」の何たるかは差し置かれているし、順序として「禅語」から「禅の趣旨」にアプローチしようとする試みも解らないではない。心得て置かなければならないのは、本来、いずれも仏道修行者の生の現場でのやり取りであるということ。そして尚且つ「不立文字・教外別伝」の宗旨を面目とする禅の現場であるということ。言葉は月を指す指であり、そのものではないし、一旦書き記されテキスト化された「禅語」なるものは「粕」の様なものであるという指摘も強ち間違っているとも思えない。そしてまた。その現場は誰の現場なのであるかという事だ。他人事でない、自己の一大事因縁として自問自答しなければ妄想に妄想を重ねることとなろうし、「無一物に還る」どころか、「無の一物を抱え込んでしまいかねない」ことを言っておきたい。更に付け加えれば、禅は私の、今、ここの、いのちの話であるということを。

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「喫茶去」
「悟りの追体験がこの禅問答の意図である。それぞれ立場の違う三人に対し、ただ「喫茶去」と云って接したのは趙州の相対する分別、取捨、過去・現在、あちら・こちらと分かつ一切の意識を断ち切った、絶対の境地のあらわれに他ならない。そこには、凡聖、貴賎、男女、自他等の分別は無く一切の思量の分別の無い無心の境地からの「喫茶去」なのだ。」<朝日カルチャー「禅語教室」より>

「喫茶去」とは「退歩」を学ぶ気はあるのかと問うている。目くじら立てて、眼血走って、肩肘張って、自見を逞しくして「悟り」だとか「仏」だとか「正義」「善悪」「進歩」だとかを求めることの危うさといったものがあるのではないか。百尺竿頭進一歩するわが仏法という「沒地味の茶」を学ぶ志意気があるのかな?と。修行者のやる気を問うている。本来、茶席で済ますような生温い話ではないと思うのだが。

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「日々是好日」
「好日は願ってえられるものではなく、待ってかなえられるものではない。自らの生き方に日々に好日を見出しえなければならないのだ。時の時とするときは来ない、只座して待つのでなく主体的に時を作り充実したよき一日一日として生きていくところにこの語の真意がある。」<朝日カルチャー「禅語教室」より>

先ず以って何を「好日」というのか。好悪定めがたし。何度も言うが、仏道の話である。善は急げといった欲の次元でどうなるようなことではもなかろう。又、私の都合でもない。私には「日々是好日」が「諸行無常」とも「色即是空」とも見えて来る。仏道の実際はそのような「今」にしか通用しないし、諸行無常の今に通用する仏道だからこそ好日なのである。時を選ぶなではなく、時は選べない、縁は選べないと言っているのだ。

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「和敬静寂」
「和敬清寂(わけいせいじゃく)とは、茶道の心得を示す標語で、意味は、主人と賓客がお互いの心を和らげて謹み敬い、茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄にすることという意である。特に千家ではこの標語を千利休の定めた「和」、「敬」、「清」、「寂」を表す「四規」として重要視している。」<朝日カルチャー「禅語教室」より>

安居修行は仏弟子の面目である。叢林、僧堂、修行道場は競争の場ではない。自己が自己に落着する現場であり、その自己たる仏道の自立は修行者同士の自律他律の中で育てられていく実際がある。一期一会、和合は精進に欠かせない要素でもある極めて当然の事実である。事実は敬わなければなるまい。それだけのことであり、お互いが自己が自己でなんともない、それを涅槃とも菩提とも寂静というのである。佛法僧の三宝が当に彼岸、理想郷たる所以である。

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「平常心是道」
「平常心」は普段のまま、現在の煩悩心のそのままではない。道元禅師の言われる「ただわが身も放ち忘れて仏のいへになげいれて、仏の方より行われ、是に従い行くとき ちからも入れずこころもついやさずして 生死を離れてほとけとなる」とある。要は仏のいえ、大自然の運行、自然法爾のままに、一切を御仏にお任せするその心そのままが平常心なのである。」<朝日カルチャー「禅語教室」より>

心理的操作の次元の話ではない。スピリットでもない。もっと云えば「心」の話でもない。命生きている今の事実を、仮に「私」とも「平常心」とも「是」とも「道」とも云っている。「色即是空・空即是色」事実を提示しているだけなのである。だから何も言っていないに等しい。

というか、畢竟「禅語」なるものは何も説明していないし、解釈しろとも迫ってはいない。苦界に輪廻するのか、彼岸に転生するのか。死んでからのことではない。お前はどっちを向いて生きているのかと問うているのである。「禅語」は「私という月を指差して」その覚醒を待っている。




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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
呼んだれど露台の猫は起きもせず  よし
yoshiyoshi
2012/06/17 08:18
yoshiyoshi樣。
呼んでも応えない「禅語」ですが、知らんぷりで居眠りこいている猫が余程仏様?!

市堀
2012/06/18 17:03

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