再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 「宗教」という言葉が死語になるとき

<<   作成日時 : 2012/06/19 04:09   >>

トラックバック 0 / コメント 3

画像


谷間に沈む朝靄閑古鳥 玉宗

先日テレビを見ていたらバラエティー討論といった感じの番組の中で「宗教は阿片だ!」と叫んだパネラーがいた。そのようなことを得々と言挙げする識者がまだいることに少なからず驚いたことだった。「阿片」にも「覚醒」の効能があるらしいが、毒になるか薬になるかは病人次第だ。そのような心配よりなにより、「禅」は「宗教」をも内包しているのは確かだが、「阿片的要素」と対極にあると私などは認識している。

結論を先走りした。
オーム真理教事件以前から「宗教法人」に対する世間の風が偏向し始めていたが、あれは一つの契機となったことは否めないだろう。あの事件はなんだったのかなどと今更検討するまでもない。そのようなことより、。「宗教離れ」「無宗教葬儀」「檀家制度の崩壊」等といった昨今の社会現象、漂流する「宗教」の混迷ぶりと慌ただしさが顕在化してきている現代、日本人の「宗教」という言葉から受け取る「イメージの異常さ」或いは「異常なイメージ」の検討の方が余程これからの日本にとって有益ではなかろうかなどと思ったりする。
「宗教」という「言葉」「イメージ」が一人歩きしている。迷走している。いずれ「宗教」という言葉は死語になるのではないか。「言葉の末期症状」の様相を呈している。

画像


<宗教とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづ教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。> 『ウィキペディア・フリー百科事典』より

「宗教とは何か」という問いに対して、宗教者、哲学者、宗教学者などによって非常に多数の宗教の定義が試みられてきたとされ、「宗教の定義は宗教学者の数ほどもある」といわれるといった今更のような指摘も、何も語っていないに等しいとも言える。「実存」が「定義」とか「本質」に先行するのは「宗教」の於いても例外ではないからだ。見落とされがちなのは「宗教」が「観念体系」であるという指摘だ。
「宗教」が観念の領域の話であるなら、「禅・仏道」は「宗教」ではないと申し上げたい。命生きている事実の当所は「観念」だけで済まされるものではない。そういう意味では以下の指摘は妥当なものであり、且つ建設的な条件を示唆している。

<日本語の「宗教」という語は、幕末期にReligionの訳語が必要となって、今でいう「宗教」一般をさす語として採用され、明治初期に広まったとされている。
原語のほうの英語 Religion はラテン語のreligioから派生したものである。religioは「ふたたび」という意味の接頭辞reと「結びつける」という意味のligareの組み合わせであり、「再び結びつける」という意味で、そこから、神と人を再び結びつけること、と理解されていた。>
 『ウィキペディア・フリー百科事典』より

画像


「神と人を再び結びつける」とは「神の手元を離れた人間」がいるということだ。「自己を見失った自己がいる」ということだ。「繋がりを見失った自己」がいるということだ。「孤独な自己」がいるということだ。現代人は自分の孤独さを本当に知っているのだろうかと言いたい。

私は以前から「出家は再生である」と言い張って来たが「出家」を「宗教」に換えてもいい。否、もっと直截に「人生」としてもいい。否、もっと事実に即して云えば「いのち生きること」と換言してもいい。「実存」と言ってもいい。「私」といってもいい。「諸行無常」と言ってもいい。「今」と言ってもいい。「宗教」と云わなければならない理由が私にはない。観念だけが独り歩きしているのではない。いのちは常に自己更新をし続けている、世界と不即不離の今の事実である。「いのち」は「再生力そのもの」である。

「宗教」が「阿片」なのではない。自己を誤魔化している自分がいるのだ。「諸行無常」が「阿片」なのではない。「諸行無常」に目を瞑ろうとしている弱い自分がいるのだ。絶対的に孤独な自己をどう始末し、決着をつけるのかと問われている。「宗教」という「言葉」が死語になる日が来るかもしれない。しかし、自己の命を生きるのは自己であるという厳然たる事実は免れられないことを肝に銘じていなければならない。










ランキング応援クリック

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
フローレンスからボナセーラ!
今日は参加できそうなのでコメントいいですか?
昔は家族が嫌な位関わっていたから自分を感じさせてくれる宗教が必要だったのでは。現在は孤独なので自分に関わってくれるものが好まれ、宗教という言葉のブランドを持って誰かに存在をわかって欲しいって思う人の心の隙間に入り込むのでは?イタリアで身近な若者が神の声を聞き宗教の道に(キリスト教カトリックですが)進むのを目にしております。うまく言えませんが宗教は死語にはなりえないと思えますが。。。応援ポチ公
Florentia55
2012/06/19 05:55
宗教を特異なものと自ら喧伝する宗教家もいるのだからややこしくなるのよねぇ。

片足が少し短い麦の馬   よし
yoshiyoshi
2012/06/19 07:44
yoshiyoshi樣。
まあ、類は友を呼ぶってことで・・・。

Florentia55樣。
「宗教心」そのものは無くならないでしょうね。私が言いたかったのは日本に於いて「宗教」という言葉の惹起するイメージが余りにも荒唐無稽に過ぎるのではと危惧したからなのです。
市堀
2012/06/21 20:03

コメントする help

ニックネーム
本 文
「宗教」という言葉が死語になるとき 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる