再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 震災から学んだこと・再考

<<   作成日時 : 2012/06/04 04:12   >>

トラックバック 0 / コメント 2

画像


開け放つ堂を涼しき風通る 玉宗


今回、市内の図書館友の会から講演を依頼され、「震災から学んだこと」というテーマになった。これまで何度もご縁のあるところで話して来た事だが、もう一度確認して置くことにした。

震災から何を学びどんな答えを出そうとしているのか。私にとってはいつまでたってもそれだけが逃れられない自問自答なのだ。

能登半島地震後に復興整備の名目でできた広場がお寺の目の前にある。以前は檀家も含めた数軒の家が建っていた。時々町の賑わい広場みたいな感じで「なんとか祭り」を催している。今日も市祭で露天やらパレードやら音楽やらで朝から賑わっている。町作り・商店街活性化の一環であろう。
震災以前、お寺は宗派を越えて商店街の一隅を照らす役割を曲がりなりにも担っていた。然し、被災から5年が経った現在、小規模ながらも再建なったお寺に出入りするのは少ない檀家だけである。その檀家も葬儀でお寺を使用する事がなくなり、民間の葬祭業者を頼っている。以前からの懸案である少子高齢化、過疎の問題。

お寺という伽藍の需要が時代にそぐわなくなったとか、お寺が葬儀や法事だけを事としているのが間違いだという指摘。そのような社会の潮流の中で、町の再生プロジェクトから除外された観のあるお寺。この現実が町民が震災から学んだことの一つの答えなのであろう。私はそれを批判しているのではない。正直なところ、なんだか少し寂しいのである。

又、地域の復興と共に「心の復興」というスローガンが震災当初から言われていた。震災によって人は不安、葛藤、絶望の狭間の中で心が揺れ動いていた。そのような動揺を鎮め、平常底に戻ることが「心の復興」である。私もそうであった。そういう意味では私は以前より肝に銘じている「心模様」がある。

画像


それは、生きるとは「縁を生きること」にほかならないということ。そして、その縁は私が選べるような代物ではない。選べないからこそ、それは人生の宝なのである。生れ、生き、出会い別れ、災害に遭い、老い、死を迎える。生老病死、四苦八苦、自他迷悟。全て「縁」の様子であることを実感自得したものである。私は何のために生れ、生きてゆくのか?人生の意義とは、「縁という宝」をどう活かすかが試されていることに他ならない。人生の醍醐味も希望も諸行無常の今を置いて余所にはないのである。

災害は「私のもの」などといったものは一つもなく、無一物にして無尽蔵こそが私の還るべく行くべき原郷であることを教えてくれた。人は倒れたところからしか起き上がれない。それが私の「災害から学んだ答え」である。
人生とはそのような諸行無常の只中の事実に他ならず、私を虚しく真っ直ぐに「今、ここの、いのち」を戴いてゆく。それ以外の何処にも私の再生の可能性はないのであると覚悟を決めている。

能登半島地震以後も国内、国外に大地震を含めた自然災害は今日に至るまで絶えることはなかった。そして昨年の東日本大震災である。私の中で、能登半島地震に被災して学ばされたことは愈々揺るぎのないものになっていると言ってよい。






ランキング応援クリック

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
誰も彼も学ばぬままで夏になり  よし
yoshiyoshi
2012/06/04 07:13
yoshiyoshi樣。
もたもたしていましたら、もうすぐ夏至?
市堀
2012/06/06 16:27

コメントする help

ニックネーム
本 文
震災から学んだこと・再考 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる