再生への旅

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zoom RSS 神仏に手を合わせるとはどういうことなのか?!

<<   作成日時 : 2012/06/06 04:07   >>

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水無月の花に感けてゐたりけり  玉宗

昨日から暦の上では仲夏に入り、これから愈々暑さも本格的になっていく。お堂の供華の管理も油断出来なくなる。水やりを忘れていて花を枯らしてしまう事が時々あるからだ。閼伽も毎日取り換えなければならないことは言うまでもない。先代住職からの口伝で、「朝晩の坐禅や勤行を忘れることがあっても、閼伽や供華を涸らすような事があってはならん」というものがある。
正直なところ、なるほど住職になるということはそういうことなのかと思えるようになるまで随分年季が掛った事だった。

若いころは理想に燃えて坐禅と托鉢と作務の仏道の三本柱が建っていればそれでいい。といったふうな無鉄砲ぶりであった。これはある意味本末転倒なのである。坐禅や托鉢や作務のなんたるか、その本義が分かっていなかったと言ってよい。どれ一つとして粗末に扱ってよい出会いというものはない。「今」はいつも諸悪莫作・衆善奉行の装いで立ち現われる。仏道に於いては、些事大事、善事悪事は切っても切り離せない双子の兄弟の様なものだ。というよりそのような二見に分別しているようではとても禅僧とは言えないし、「住持三宝」の実際に暗いと言わざるを得ない。

ところで、供花や閼伽を供えたり、朝晩のお勤めで回向することだけではない、坐禅も、作務も、運水搬柴、どれもこれも本質的には「私を越えた神仏と共にあろうとする」祈りの形態ではなかろうか。そうありたいと思っている。
願いや祈りと言えば如何にも物欲しげで、面の皮の延長の話になってしまいかねないが、大事な事は私が神仏に対し「空しくなる」ことが肝要であろう。欲の上塗りの如き授りを期待するのではなく、先ず、私が身も心も、私の都合の彼方へ擲たなければならない。そのような「行の真偽・帰依の真偽」が試されている。私が施した分だけ、私が空っぽになった分だけしか「神仏の世界」は一体になってはくれない。身を捨てて浮かぶ瀬が確かにある。供養する、回向するとはそのような次第の感応態のことではないか。私はそう弁えている。

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「死んでも死なないように」的な私優先の願い事から、自らを置いといて世界平和や家族の安泰を願うことまで、出来ることなら「よりマシな人生を」という人間らしさを笑うつもりはさらさらない。然し、肝に銘じて置かなければならないのは、諸行無常は私の強意ではない。私の力の及ばない領域から私はこれから先も偶に痛めつけられ、時に癒されることだろう。「行」とはそのような諸行無常の無情さからの受け身を学んでいるように見えて来ることがある。

ごらん通りの、とても仏弟子とは見えない煩悩まるけの人間であることを自他ともに認める事に吝かでない私であるが、事大小となく、神仏に対するときは常に「ひとり、真摯に、真っ直ぐ、己れ虚しく」といった姿勢を忘れないようにはしているつもりである。
人が見ていようがいまいが、褒められようが貶されようが、どっちへどう転んでも自分の命を生きて行く。信仰を持って生きる。神仏に手を合わせ、神仏という「超越世界にして端的な世界」の方を向いて生きて行くとはそういうことではなかろうかと。私の坐禅はそのような「行」の本質から懸け離れたものではない。

ということで、今日も仏弟子にして大飯喰らいで、俳諧狂いのこの男は、仏様に供える花を探してウロウロしている次第である。





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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
ひたすらに夕焼雲は燃えにけり  よし
yoshiyoshi
2012/06/06 04:22
yoshiyoshi樣。
人の世のひたすらなる命模様。夕焼けが美しい訳ですね。
市堀
2012/06/09 09:28

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