再生への旅

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zoom RSS 癒しと仏道・開放するべきものは何か?!

<<   作成日時 : 2012/07/09 04:16   >>

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夢に会ふひとみな寡黙さみだるゝ 玉宗

「お寺をもっと社会へ開放せよ。」といった掛け声とともにお寺の活用とか社会参加を促すような気風がある。お坊さんの人生プランナーとしての能力が試されているとの指摘もある。それによれば、お寺を開放するとは、(宗旨に則った行持は別として)各種イベントを企画し、その会場として提供し、多くの人達の癒しの空間となればということらしい。趣旨は解らないではないが、その種の企画に集った来場者がそのまま仏教理解者であるとは限らない。企画者側にも参加者が理解者である必要もないと思っている節がないこともない。人が集まり心の癒しの時間空間を共にする。それはそれで結構な事であり、殊更に目くじら立てるような事ではない。

然し、以前から私の中には、この種の「癒しの集い」といったものに対して喉に引っかかる小骨のような思いがある。
お寺という宗教施設での文化、文芸、諸芸能、或いはライトアップや展示などといった演出や催事。薪能、茶会、音楽会、演芸会、展示会等々。俳句にうつつを抜かしている私がこのような事を云うのも可笑しなことではあるが、そこにある「癒し世界」は「仏道」とどのように関わるものなのか問い質したい思いに駆られることがしばしばある。というより、私自身の問題として何か釈然としないものがある。

「癒し」とは何か?

癒し(いやし)、ヒーリング(healing)は、心理的な安心感を与えること。またはそれを与える能力を持つ存在の属性である。
心理学的に人間が本質的に求めているのは安らぎと平穏であり、もともと人間は攻撃的な要素を好まない。もしくは極力避けることで自己防衛を図る生き物なので、癒しを求めることを攻撃的要素を避ける意味でも非常に大きな意味を持つと本能的に知っている故の現象である。<Wikipediaより抜粋>


仏道的生き方とは「癒し」と限定されるものなのだろうか?そのような人間らしさといったものを否定はしないが、それらを共有し、共感することが仏道の本義であるとは余りにも短慮が過ぎるというものではなかろうか。

要するに「人間らしさ」を言挙げするでけでいいのだろうか?といった思いが私には払拭しきれない。

開放すべきは「癒し」をも越えた自己の執着心であり、信仰とすべきは「癒し」をも包み込んだ「人間らしさを越えた領域」ではないのか。それはどこまでも拘りのない大いなる自己の命を受け入れる作業の中で展開される命の様子ではなかろうか。そのような命の深さへの切り込みは、情緒一辺倒といった人間らしさの偏向に恃んでいいものなのかどうか。

情緒的曼荼羅模様は、それも又妄想を一つ重ねたことになりはしないかと、私のようなへそ曲がりは要らぬ心配を抱いたりしている次第。禅は心理的安心を得る為の「行」ではないと思っている節が私にはある。
お寺の実際は、死を避けられない今を生きている者達に寄り添う空間である。一人一人の命と真っ直ぐに向き合い、命戴き、命施す場である。お寺に人が集うこと、それは仏道への実践であり、単なる心理的客商売ではなかろう。

住職の引き籠りがちにして人間食わず嫌いな性格という事もあり、わがお寺の人の出入りは少ないし、賑やかなことが余り得意ではない。そうではあるが、数少ない「人間らしさ」と「仏法」の出会いに力を尽くし、精進することに吝かではない。
究極の救い?! それはどこかで「人間らしさ」を見限り、そこから再起することが求められているように思える。
どうもそれが私の人生プランナーのマニュアルのようである。
流行らない藪医者ではあるが、羊頭狗肉の看板は挙げたくはない。それほどの自覚は持ち合わせているつもりである。






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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
お寺でコンサートなんかやるのが一種の流行である、ただ人が集まればそれで良いのだろういまひとつ釈然としませんなぁ。

三日月に穂は泳ぐかな金魚草  よし
yoshiyoshi
2012/07/09 07:35
誰でもが先ずは黙って坐れると言う意味で解放されたお寺が近くにあればいいのですが。そんなお寺は「人間らしい」のか「人間らしさを超えている」のか分かりませんが。応援しています。
くら
2012/07/09 14:36
フローレンスからボンジョルノ
御住職は充分に解放されて癒していると思いますが。具体的な数字で見るとまた違うのでしょうね。正しい道が開く事をお祈りいたします。ポチッ。
Florentia55
2012/07/09 15:17
 小澤征爾がロストロポービッチと組んで、若い楽団を引き連れて近隣のお寺さんでコンサートを開きました。5,6年も前の事でしょうか。追っかけで行って聴きましたよ。お寺さん始まって以来の人だったそうです。何も考えずにただ行ってみただけでしたが、いわれてみればいろんな考え方があるんだなぁ、と考えさせられました。先週、ひょんな事からそのお寺さんの坐禅会案内を目にし、今週から週1で通うことになりそうです。なんかご縁があったみたいです。うれしい。
くろちゃん
2012/07/09 15:23
yoshiyoshi樣。
集まることに意義があるとするのも解らないではないのですが・・・同感です。

くら様。
そうですね。人間らしさにも色々理屈をつけてしまった観があります。禅僧は黙って「なり切る」ですね。(−−)応援ありがとうございます。

Florentia55樣。
こころを開いても人が寄ってくるとも限りませんし、これもやはり「ご縁」でしょうかね。いや、きっとまだまだ私の解放度が足りないのでしょう。

くろちゃん様。
そうですね。いきなり本道ではなく、入口から誘う機縁として人を集める。それもありでしょうね。真実の道人ばかりというのも気持ち悪い?
結局、志のある方だけが門を叩くのでしょうね。
市堀
2012/07/10 17:26

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