再生への旅

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zoom RSS 「いじめ」から学ぶこと

<<   作成日時 : 2012/07/12 03:55   >>

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傷舐めてをれば脈打つ夏野かな 玉宗

東日本大震災という「いのちの現場」を社会が共有していた筈なのに「いじめ」がなくなることはなかった。震災以前以後、それは「社会的問題」として取り上げられているようであり、また「いじめ」という「問題」が「社会化」しているようにも見えて来る。そしてそのような現象が加速化しているようにも。「いじめの解決」それは「社会的アプローチ」だけで可能なものだろうか?

凡そ、人が二人以上の単位になった時から「いじめ」という構図は発生し始めているのかもしれない。小は家族から隣近所、学校を含めた様々な共同体、マスコミから国家まで、人間が「社会的動物」であるが故に、自己の優位性を保とうとするその作業は本能に根ざして抜き難いもののようにも見えて来る。

それにしても、「いじめる者」と「いじめられるもの」それはそのまま「強い者」「弱い者」という単純な図式ではないと思うが、図式化して問題が解決できるというものでもないところがある。又、「いじめ」を他人事のように言挙げしている私自身が今現在も「権威」や「人権」を嵩に着て、「いじめ」に加担しているかもしれない。私の関わり合い方が相手にどのように届いているのか解らないと言ったところも人生には往々にして起こる。夫人との夫婦生活もある意味「いじめゴッコ」に見えなくもない。そのような他愛もない愛憎劇の界隈では「負けるが勝ち」といった人生の真相を垣間見ることすらある。

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私たちは「いじめ問題」から何を学ばなければならないのだろうか?
人の痛みを思い遣る能力の欠如を嘆くのは容易い。そのような情緒を育てる工夫と共に、痛みに耐える能力を育てる寛容さも必要であろう。「いのち生きる」為の智慧。人生は様々な「生傷」を受けて再生し、逞しい「瘡蓋」として生きて行くようなところがある。現代の情緒教育の欠点。それは教える方も教えられる方も「生きているいのちの実感、リアリテイの貧困」に根差しているようの思えてならない。ものの豊かさがこころの空洞を招いたかのごとき現代社会。

人の一生は「学び」以外のなにものでもない。この世に生れ出でて、人生を歩み、死んでいくその瞬間まで、「いのちは学びつづけている」に違いないのだ。諸行無常を生きるとはそういう存在ではないのか?
そうであれば尚更のこと、「いじめ」が被害者の「自死」という結果を齎すことは「いのちの大事さ」を尊ぶ立場からすれば二重の悲劇であると云わざるを得ない。「責任の所在」を追求しても死んだものは返ってこない。「いのち」を償えるものなどありはしないのだ。「いのち」は一回限りのものである。「償い」とは何か?それはどこまでも生きている者の言い草である。

残念なことに仏道という「自己を学ぶ」べき現場に於いても「いじめ」はあるのが現実だ。自己のいのちにぶれない生き方を学ばずして、人のいのちを弄ぶが如きは仏弟子として二重の僻事であり、破戒である。自己の世界を狭めていることに気が付いて欲しい。それは自傷行為に等しいのだ。

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「いじめ」にあっている子とは親にとって分身である。我がことのように心が痛んでいることであろう。まして「自死」にまで追い込まれてしまった現実を前に、私ならばどうするだろうと考えさせられる。親にとって子の自立こそが最も望んでいる孝行である。自律、他律の社会生活の中で、ときに「生傷」を作り、その「傷を舐め」、瘡蓋をつくり、剥がし、起き上がる逞しい人間になってほしいと切に願っているのが親というものだろう。

坂口安吾が「教育とは畢竟、限度を教えることだ」というようなことを放言していたが、そういうことで言えば、人生の学びとは「関わり合い方の程度を学ぶ」ことだとも言えよう。換言すれば「いのちの戴き方」である。お互い、それぞれに掛け替えのない命を戴き、関わり合いながら生きている。比べることの出来ない「いのちそのもの尊さ」。それは「いじめ」という構図で担保されるような筋合いのものではない。それは「いじめ」をしている当人たちが一番感じているのではないのか?彼等は「いのちの全うな関わり合い方」を知らないのである。自己を持て余しているのだ。

現代の教育、あるいは学びの機会といわれるものはもっとその辺の事情に重点を置くべきではないのか。
いずれにしても、それもこれも生きていればこそである。「自死」を選んだ子にはその可能性も絶たれてしまった。年間三万人以上と云われる日本社会の自殺者。もしかしたら、それはすべて「いじめの構図」から生まれたのかもしれないと思ったりする。

そのよう悲劇をいつまで繰り返すのだろう人間は。

急がば回れと言うが、「いじめの解決」には一人一人が「自己のいのち」と真摯に対峙していく「孤独の道」の歩き方を取り戻す意外にないのではなかろうかと思えてならない。





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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
フローレンスからボナセーラ
深いお言葉そして間休のお花に癒されました。私は情けないそんな言葉しか思い浮かびませんでした。
Florentia55
2012/07/12 06:39
因果応報を信じた果ての夏野かな  よし
yoshiyoshi
2012/07/12 07:54
住職、こんにちは。
いじめはなくならないと思うよ。戦争がなくならないのと一緒だと思う。

いじめはなくならないと言う前提で手立てを考えないといけないと思う。
原発もさ、事故は起こらないと言う前提があってあの結果だった。

子供に勉強を教えることも大事だけど、生き残る知恵を授けることもしていいんじゃないかなあ。

とにかく生き抜け。そのためには逃げてもかまわない。

学校の屋上から大声で俺は○○と○○にいじめられているんだ〜〜〜って叫べって教えたい。どうせ飛び降りるんだろ、それなら皆に叫んでから死ねってあの子に言いたい。
住職、日本全国の坊さんに呼びかけて学校に行って子供に死ぬなって言ってよ。
くやしいよ。
こっこ
2012/07/12 11:01
全く同感です。加害者は被害者でもあります。私も気が付かずに加害者になっています。最近の親の子殺し、子の親殺し、たこつぼ的職場、孤独死、無差別殺人等々。根っこは同じと考えます。俗の人間として無力感を覚えます。せめて願いを持ちながら謙虚に生きたいと思っています。ところで子供達の感性教育として俳句を教えることはないのですか。
くら
2012/07/12 14:43
 長く教育に携わり、今も関わり続けている私は、このような状況に加担した一人として責任を痛感します。教育現場もまさに「自傷行為」が多くみられることも事実です。なぜいじめがなくならないのか?それは、一人ひとりが成長の過程で大切に守られ、その存在を全面的に受け入れられているという体験がない(少ない)からではないでしょうか。あなたはここにいていいんだよという安心感、それがあってこそ、自分を大切にでき、周りの人をも大切な存在と思えるのではないでしょうか。大切にされ、認められている自己肯定感が「感謝」となり、その感謝の念が他者への「思いやり」にと繋がるようにも思われます。朝の食卓で、学校の1時間の授業の中で、子どもたちは暖かく包まれているのでしょうか。
 この自己肯定感は、子どもがもつ前に教師がもたなけれならない。「自傷行為」のある教育現場から
「いじめ」を失くす教育は生まれません。しかし、教員を指導することの難しさもあります。教師は自分のしていることを間違っているとは思わないのです。私は「あなたたちは善意で間違っている。善意であっても間違いは間違いだ」といってきました。子どもを良くしようとして、睡眠時間を減らしてまで子どものことを思っている、なぜその指導が間違いなのだと教師は思っています。教師には当然子どもを良く導こうという使命感もあります。しかし、それが間違っていることもあると、具体的に指摘するのは私たち「先輩」の役目だと思いますが、そんな人間はいません。
「鳥の眼」と「虫の眼」でしっかりと「いじめをなくすこと」を具体的に考え、実践に結び付けたいと考えています。これからもご住職の御考えをたくさん発信してください。

2012/07/12 18:08
Florentia55樣。
花に感じる心の持ち主に合掌。)^^)

yoshiyoshi樣。
捨てられし夏野に目覚めたるごとし 玉宗

こっこ樣。なるほど、仰る通りですね。生きる知恵こそが「いじめ問題」の根底に横たわっているのを忘れてはなりませんね。合掌

くら樣。
社会であるがゆえの人間の問題といったものがうまれたのでしょうね。様々な様相の根底にある人間性の善悪の彼岸にあるもの。そのような「大きな世界
」を感じることが出来にくくなっているのでしょうか。
一度、小学校で「俳句教室」の時間をもらったことがありますが・・・その後無しのつぶてです。
(−−)

宙樣。
今回は僅かの時間でしたが教育の現場を垣間見る思いがしました。そこもやはり私には「いのちの現場」であり、そうであらねばと強く実感したことです。そしてそれれは学校だけではなく、一般社会と連結しているということも。
子共は水晶のような目で私たちを見ています。そして大人の真似をしています。真似をすることしか自分達の「感謝や恨みの念」を発信できないからでしょうね。
問題解決の大人が手本にならなければいけませんね。
合掌
市堀
2012/07/13 14:36

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