再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 仏道は文化である

<<   作成日時 : 2012/07/02 04:09   >>

トラックバック 0 / コメント 3

画像


拘りのなくて涼しき風が吹き 玉宗

「烏賊を食べる食べない」「べかりけり論争」等々、なるほど、言葉一つ、食べ物ひとつをとってみても、決して一筋縄ではいかない「なまもの事情」ではある。「なまもの」とはある意味、磨かれていない現物である。それがいいと云う人間ばかりではないのも生の現実である。時には中毒する事もある。手を加え、知恵を加えた人工、加工された文化的「品物」の方が受け入れやすいというのもナマな人間の人間たる所以。仏道は「生もの」であると馬鹿のひとつ覚えを繰り返していたが、世の中には「生もの」が苦手なひともいるのだということにハタと気付いた昨日今日。というより「仏道は文化である」と言った方が適切なのかもしれない。

だってそうではないか。放埓な、欲望丸出しのナマな生き方をしていていいのかと問われているんだもの。
ある意味「ナマな生き方」とは対極にある。いのちは「なまもの」であるがそれをどう戴くのかという話であった。仏道、それは知恵を尽くしたいのちの戴き方、戴かせ方の「典型」である。「文化」と言って一向に差し支えなかろう。そのような次第の「仏道文化の一端」を御紹介する。

先日久しぶりに越前市武生の御誕生寺専門僧堂へ出向いた。それもこれも、時々無性に板橋興宗禅師にお会いしたくなるから不思議な御方ではある。それは夫人も同様であるらしい。

画像


少子高齢化の社会潮流の御多聞に洩れず、僧堂も本山は別格として、地方僧堂は安居する修行僧が少なくなっている現状のようである。その様な中で御誕生寺僧堂は三十人の雲水が安居しているというから、それだけでも目を見張り、耳を欹て、心する価値があろうと言うものだ。「数が多ければいいと云うもんじゃないだろう」と言ったご指摘があることは存じ上げている。道元禅師が「不満十衆なりとも天下の大叢林なり」といった気概、大志を以っておられたことは全宗門の知るところである。確かに多ければいいと云うものではない。多過ぎれば枯折の憂いを生じるといわれる如く、「和合僧」という仏道の本筋と懸け離れることにもなりかねない。それは少な過ぎる状況に於いても同様の問題である。

仏道はどこまでも「自己の確立」であり、数に恃むものでもないし、又、個に籠っての独り善がりで済むものでもない。自律、他律の中で成し遂げられるのも又、偽りのない修行の実際であろう。その辺の塩梅は現場で料理されるべき匙加減ではある。

画像


ところで、御誕生寺には猫が多く飼われていることでも知られるようになった。今現在、雲水さんを優に凌ぐ五十匹ほど安居、否、棲みついているらしい。そのどれもが飼い主の愛情の賜か、無防備と言ってよいような極楽ぶりである。そのような猫とひと時を過ごしたいと云う参詣者が後を絶たないのである。私が伺った折も数人の方がいつまでも猫と共に寛いでおられた。癒されているのであろう。心を痛めている現代社会の一端を垣間見た思いがした。「なるほど、このようなお寺の社会貢献もあるのだなあ」と認識させられた次第。

方丈へ上り、よもやま話。今年八十五歳になり三十人に及ぶ若い雲水さん達の先頭に立って僧堂暮らしを実践されておられる禅師様。いつも私自身の小ささを痛感し、拘ることの愚かさを自ずから知らされて帰る。眺望のいい天下一品の山に登っているかの観がある。
折しも、帰り際に戴いた半折には「独坐大雄峰」と文字が揮毫されていた。

画像


禅の公案としても知られたこの言葉には次のようなやり取りがある。

僧、百丈に問う。
「いかなるか是れ奇特の事」
丈云く。
「独坐大雄峰」
僧、礼拝す。
丈、すなわち打つ



例によって禅語は暗喩といっていようなところがある。
「奇特の事」とは「わが人生の一大事は何か」という自問自答である。「自己とは何か?」涅槃寂静を問うているのである。
「大雄峰」とは固有名詞ではない。「本来の自己の面目」「帰家隠坐の当所」を言っている。「独坐」とは唯我独尊と言っているに等しい。「独」は「孤独」の「独」ではない。何物にも比べられない、無上の、執着・見解以前のなんともない自己のこと。「坐」は「一体であり、世界と別物ではない」という端的を表していよう。執を戒め、余所見をせずに真っ直ぐ自己を調えていく。調えるとは「作為」ではない。「行」つまり「身を捨て、心を離れる」ということ。『独坐大雄峰』の人とはいつでもどこでも「今、ここ、自己のいのち」を住処とし徹し、「いのちの充足・充足のいのち」を生きている人のことを言うのである。禅師様の声を聞き、御姿を拝し、席を同じくしているだけで、人生の眺望が開けてくる。拘りのない生きざまがそのような展望台へ導いてくれる。

仏道、それはなんと文化的な生き方であることよと羨望の念が湧くとともに、「独坐大雄峰」に至る道程を仰ぎ見るとき、自己に徹する生き方の忽せならないものをも感じるのであった。





ランキング応援クリック

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
ようもまぁ、この歳まで無為徒食に暮らして来たことよと反省して鼻を穿っておりまする。

老翁や唄の上手は問うまいぞ  よし
yoshiyoshi
2012/07/02 07:52
「眺望のいい天下一品の山に登っているかの観がある。」
このような方に時折お会いすることのできるご夫妻を羨ましく思います。そう思う資格さえない者ではありながら。
花てぼ
2012/07/02 09:40
yoshiyoshi樣。
白南風や仏弟子といふ無為徒食 玉宗

花てぼ様。
縁は異なもの味なもの、でございますね。
有難いことだと常々思っています。

市堀
2012/07/05 11:36

コメントする help

ニックネーム
本 文
仏道は文化である 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる