再生への旅

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zoom RSS 今日の諸行無常・「いのち惜しみ、いのち惜しまず」

<<   作成日時 : 2012/07/21 04:03   >>

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解夏の僧らしきが駅をうろつきぬ 玉宗


私のブログは日記のようなものである。魂の軌跡といってもよい。私は宗教を一般的に語るつもりはない。人間・市堀玉宗の世界を語りたいだけ。時に人と共感し、自己の可能性を高め展開できれば幸いなことだと望んでいる。

お坊さんや俳人が人様より上等だとも下等だとも思っていない。共に愚かだったり賢かったりするだけではないか。俳句がつまらないのではない。つまらない俳句があるだけではないか。宗教があやしいのではない。あやしい宗教があるだけではないか。詩人や聖職者が神や仏に近いのでもない。そっちの方を向いて生きているだけのことではないのか。ただ、それだけのことではないのかと自分に云い聞かせて生きているようなところがある。

共にただ人間なるもののみといった枠組みの中で人を見くびっているようなところがある。私は自分も人も買い被りたくはない。あるがままに出会い、共感し合いたい。身も心も軽く、そしてできれば真摯に人生を生きてゆきたい。仏弟子となったことも、俳句を始めたことも、ブログやFBやツイッターをはじめたことも、その姿勢の延長線の歩みのつもりである。ではあるが、孤独なひとり遊びをしている風に見えなくもない。孤独と云えば孤独である。このような境遇も自ら選んだようなものだから誰かを恨んだり羨ましがったりすることも敵わない。せいぜい、運命に呆れるような程度である。

<以前、板橋禅師にわが身の不遇を愚痴ったことがある。

「一生懸命にやっているんですけれど、誰にも解って貰えなくて・・・」

「一生懸命生きていない人間がいるとでもいうのかい?」

何気ない御答えのされ方に頭を殴られたような思いであった。

私のやっていることは仏道に於いても本筋でないのかもしれない。しかし禅師様は一度もそれを咎められるようなことはなさらなかった。只、グチグチと今を蔑ろにしてはならないことを暗に諭される。それは他でもない、自己の命、仏の命を粗末にしていることに他ならならず、自己に不昧なることをこそ愚の骨頂とは云うのであろう。

顧みれば、なにごとも自己の世界からの展望でしかない。だからこそ、それは他を排斥する理由にはならないし、自己の立場に謙虚でなくてはならない。自己に厳しくなくてはならない。
又、私が私の理解や説明や感性だけで収束している「いのち」であったら、なんとこの世は詰まらないことであろう。 私がいてもいなくても「なんともない」世界がある。それを受け入れなければならない。 理解できなくても、説明できなくでも、表現できなくても、ありのまましているだけで赦されているいのちがある。

いのちが自ずからいのちを肯う。そこに落着できて初めて「私はわたしであって、それでいい」と言い切れるのであろうと思っている。そのような繊細ないのちを惜しまなければならない。そして尚且つそのような逞しいいのちを惜しまず生き切りたい。








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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
ビール開け生きてある身を呪いけり  よし

つくづく我の我が侭が可笑しいです。
yoshiyoshi
2012/07/21 04:15
yoshiyoshi樣。
わが身ながらも見に余る光栄、というところですかね。
市堀
2012/07/24 07:55

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