再生への旅

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zoom RSS 仏になる、仏でいる。あなたはどっち?!

<<   作成日時 : 2012/07/30 04:10   >>

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そのままでいいよと風の涼しさよ 玉宗

金沢大乗寺の日曜参禅会に参加してきた。市内に比べると郊外の小高い大乗寺山丘陵地に位置しているだけあって比較的凌ぎ易かった。三十名を越える参加者の熱気で坐禅堂は熱かったが、外単に坐っているとときどき涼しい風が吹き込んできた。法話は院代老師の「普勧坐禅儀」の最終章。参禅の要機たる人身を如何に保持していくか、「真龍」を怪しまぬ。それが取りも直さず「修行」。

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坐禅堂の入り口正面に『選仏場』という扁額が掛けられている。仏を選ぶ場、又は選ばれた仏の場、そして文字通り「選仏の場」という理念が込められているだろう。

宗門においては「坐禅」が「自己の正体」であり、「自己の心地」であり、「仏道」の正門である。凡夫の私が「坐禅」という「形」に救われるためには、この五体を擲って、足を組み、背筋を伸ばし、わが思いを棚上げにして、「坐禅」そのものにならなければならない。否、ねばならないではなく、なっていればいい、と言いたい。ほとけになるのではない、ほとけでいるのだ。そこには「無為」という「持戒」がある。真の「自己」に成りきるために、そのような、ちょっとした「生きる姿勢」「身と心の脱力・開放」が「選仏の場」なのである。

「選仏」の「選」とは「作為」ではない。他の強意ではない。「自己を誤魔化すな」といっているのである。

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大乗寺は在家出家の隔てなく、参禅会では順次堂内に入り坐らせている。宗門的にはお坊さん以外は堂内に入れないことが多い。一般の参禅者は外単と呼ばれる一画が与えられている。在家は選仏以前、という理屈も解らないではない。当然、仏弟子はそれなりの修行を積むことが期待されていると心得るべきである。どの道の世界にもそれなりの「選仏場」があるだろう。

修行というものも、本来の自己があるがままになるだけであり、何か一物を足したり引いたりするような代物ではあるまい。花は只そこに咲き切る。それが成仏というものだろう。競争や分別界隈の話ではないからこそ、それぞれが自己に厳しく対していかなければならない。それを仏道とも、宗教ともいう。

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選仏を誤るものは何か?自己を晦ますものは何か?
誤魔化しがきかない世界を歩むことの在り難さというものがある。既に救われている自己のいのち、既に不足のない自己のいのちに目を開け耳を傾け心を忘れ身を捨てる。道を求め歩むとは、それだけのことである。それ以外の何を自己に求めようというのか。

「選仏」、それは、自己に心地に開眼し、自己が自己になり切ってなんともない、只管なる、いのち限りの、今、ここの様子である。唯我独尊なるいのちの尊さ。諸行無常の尊さに生きる。それは「私」という「煩悩」の恣意や都合ではない。「自己の本分」と謂われる「私の分別界隈」を越えた「いのちそのものの姿」である。仏弟子とはそのような方法で自己を生き、人を活かし、社会に貢献する。






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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
河鹿鳴き闇を捲りて去りにけり  よし
yoshiyoshi
2012/07/30 06:54
>既に救われている自己のいのち、既に不足のない自己のいのちに目を開け耳を傾け心を忘れ身を捨てる
 それが確信になっていないのです。坐禅をしているときは少なくともおっしゃるような境地に近づけるような気がします。
 先週の坐禅会には友人も参加しました。2名だけと思って伺うと先客がいて、なんと高速道路を2時間半掛けていらした方でした。和尚さんも3時間の持ち時間を超えて4時間3炷坐りました。中に提唱を挟みましたが、居場所を得たような気持ちになりました。また参禅したいと思っています。玉宗さまのこのブログにも励まされつつ。

くろちゃん
2012/07/30 20:35

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