再生への旅

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zoom RSS 行雲流水

<<   作成日時 : 2012/07/31 04:09   >>

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死出の旅まだ続きをる夕焼かな 玉宗


「雲水」という言葉は「行雲流水」又は、「雲心水意」の略である。「雲衲霞袂」とう言葉もある。禅の修行者のことを「雲水」と呼ぶが、行く雲流れる水のごとき自在な境地、生き方であらねばならないというところからきている。雲や水が留まることは執着するということに他ならず、理想的には身心の束縛を解き放つこと、それが仏弟子の面目であり、真の自由人たる所以ではなかろうかと思っている。

雲は空を流れて滞ることなく、水も瞬時として留まることなく、いずこともなく消えてゆく。時々刻々、さし障りなく今を蔑ろにすることなく、只管なるいのちを只管なるままに戴いて生きていく。身も心も有為の彼方に投げ出し、無常に徹するという「清浄行」が「行雲流水」の本質として貫かれていよう。

私が「雲水」という言葉を知ったのは出家した後のことである。仏弟子としての姿を端的に言い現わしており、憧れの生き様となっていった。今はお寺の住職の身となってはいるが、三衣一鉢で、身も心も軽く生きる、いのち無一物に徹する生きざま。そのような「生涯雲水」が本望であることに変わりはない。

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しかし、云うは易く、「雲水」の道は自己が自己を律し、調えていく道でもある。他との競争や比較を絶した自立の厳しさというものがある。すべての執着、束縛を擲つことが容易であろう筈もないことは予想がつく。そのような自己確立の孤高な生き方が「行雲流水」には込められていることを人は見落としがちである。因果を撥無したり物見遊山の気楽な道行ではないというのが実際のところではなかろうか。不昧因果がそのまま脱落因果となり諸行無常となる。雲流れて空に跡なし。そうではあるが空には確かに雲の行くべき道がある。

ところで、そのような「雲水」としての生き方を困難にさせるものはなんだろうか?言い方を替えるならば、命の自在さを妨げるもの、それは何だろうか?それを示唆するものとして、鈴木大拙が講演で語った次のような譬えを忘れないでいる。

真の自由とは何か、という設問に対して大拙は、肘を指して屈伸させてみせたという。

「肘に関節があることによって私は自由に腕を動かすことができる。」

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命には生老病死という関節がある。無常という骨がある。関節や骨がない五体など考えられない。それはすでに五体を成してさえいない。生老病死や無常という関節・骨があることによって私は命を自在ならしむる。というより、命は本来的に自在であり、「私」の執着を離れている。執着も「私」という妄想のなせる業である。そのような次第の執着を離れる実践に極まりはない。「捨」は無量である。煩悩が無量であるように。

「捨」の実践を「行」ともいう。「行仏」は必ず「威儀」を具足するというのが宗門の習いである。雲水であろうが、住職であろうが、自己を縛するのではなく、自在ならしむる「捨」であり「威儀」でなければならない。坐禅という端的な形がそれに応えてくれている。それが基本だ。
「行」は人の数ほどある。雲心水意に適っているかどうか。本物であるかどうか。本物だけがそれに感応するだろう。

雲水のこころ、それは仏弟子としての初心であり、全てである。







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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
雲水や風の無き夜は良く眠り  よし
yoshiyoshi
2012/07/31 04:14
yoshiyoshi樣。
というより、お腹が満腹か疲れ切った日はよく眠れますね。
市堀
2012/08/03 19:55

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