再生への旅

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zoom RSS いのち戴く生き方について・再考

<<   作成日時 : 2012/07/06 04:16   >>

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花擬宝珠曰くありげに花伸ばす 玉宗

今回地元の中学校で一年生を対象に「道徳」の時間で「食育」の話しをすることになっている。 「いのち戴くことへの感謝」といったテーマが設けられているらしい。「感謝」、それは教育できるものなんだろうか・・当然、お坊さんとしての立場で話す事になるが、「感謝」だけでは足りない世界なんだけど・・・。

「感謝しろ」と云われて素直に「感謝できる」ものだろうか?というより、言われなくても「感謝」という念は自然に湧いてくるものでないのだろうか。「感謝の念」が微塵もないのか、といった評価を受ける悪人然の人間も偶にはいるのだろうが、悪態をつくのは感謝の念をどう表現していいのか解らないといった事情もあるのではなかろうかと思わないでもない。

「感謝」を感じることのできる人間とそうでない人間がいるのだろうか?というか、「感謝」とは、回りがどうのこうの言う筋合いのものなのだろうか?「感謝」していてもいなくても道を間違わないで生きて行ければいいのではないのか? 何に「感謝」するのか、といったことも見逃せない点ではあろう。
人は「当たり前」と思っていることには「感謝」しない癖がある。「当たり前」であることの困難、奇跡、正当性を実感できることこそが求められなければならないのかもしれない。

生きている私とは「いのち戴いている存在」であるという「事実」がある。
それは「当たり前」といえば「どうしようもなく、逃げようもなく、当たり前」であり、ときに「当たり前過ぎて」「感謝」するこも憚れるという始末になることがある。
「当たり前」である「事実」が実は「当たり前でない」と受け取れた時こそが「感謝」の出番なのかもしれん。
そういう意味では、飽食の時代の「食育」とは皮肉な現象に見えてくる。ものを粗末にし、「感謝」することを知らない現代社会。
こんな始末にしたのは子供でないことは確かだろう。「経済優先」「ものの豊かさ優先」で突っ走って来た自称「感謝を知る大人たち」の所業ではないのか。

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ここで「仏法的視座」で話しを転回してみよう。つまり、「いのちの領域の生き方」ってことなんだけど。何度も言ううが、生きている私とは「いのち戴いている存在」であり、且つ、「いのち戴かれている存在」でもあるという事実を受け入れるところから始まる。「当たり前」である「いのち」って奴は実は結構奥も幅も深く広い。で、尚且つ、「諸行無常」で「諸法無我」といった良くも悪しくも得体のしれないところがある。「私、わたし」と事もなげに言うが、「私」とはそんなに解り切ったものなのかどうか。 「私」という「些細な、いてもいなくてもいいような存在」でありながらも、「私」とは「とらえどころもない、大きな世界」と繋がっていると言わざるを得ないところがある。
そうとしか言えない「私」の「都合や欲望や執着」を越えた「向う側」の「都合」といっていい関わりがあるのではないか。「縁起の法」「いのち戴き生きる」ってことは、そのくらい「とてつもない当たり前」であったと受け取ることができなくはなかろう。

そこまで「いのちまるまる」戴くことができたならば、「感謝した、しない」などという次元をとっくに飛び越えて、「仏道」は「戴いているいのち」を「どう活かすか」というところに自問自答せにゃならんのじゃなかろうか。「いのち戴かれている存在」としては、「私をどうのように施すか」といったことが試されていると云うことでもある。生きているとはそのような関わり合いを言うのである。「縁を生き、生かされている」それは事実である。というのが仏道のバックボーンであろう。「感謝」は「当たり前」であり、もっと言えば「当たり前以前」の話である。当然過ぎて、話しにもならないことはない。

仏道はそれから先の話である。「何を、どう食べたか」ということも大事だが、「いのち戴いて、どう生きているのか」といったところを人生の一大事としたい。「自己の本来のいのちに差し障りなく生きる」そう言い切ってしまってもよい。成仏と言い換えてもいい。それって、学校教育や道徳や倫理といった領域だけではなく、敢えて「宗教」の「守備範囲」でもあると私などは秘かに自負している次第。

どうでもいいが、こんな小難しいことを中学一年生に話せる訳がないし、話してはいけないな。ここだけの話、ほんとは先生をはじめとした行儀のいい大人たちにこそ説教したいのだ、私は。







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コメント(5件)

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翡翠の顔は正面向きたまう   よし
yoshiyoshi
2012/07/06 04:52
行儀がいいかどうかわからない大人ですが、う〜ん、私にもわかりにくいです。
先ず、中学生に、例として「感謝とはなんでしょう?」「感謝ということを考えたことがありますか?」「何かに感謝していますか?」とかそのようなことをお尋ねになってみるというのはどうでしょうか。玉宗さまなら、どんな角度からでもお答えになれる、或いは答えに窮してしまったり、反対に考えさせられる質問があったりするかもしれません。
なんて勝手なことを考えているのです。
花てぼ
2012/07/06 16:38
道徳の授業をご覧になって、その後に話すのでしょうか。それにしても10分とは…。高校道徳(最近は全国的に広がっていますが)農業高校、飼っていた鶏を屠殺した後の授業。生徒の反応。「なんとも思わなかった」「意外と平気だった」。それでも授業は平然と進みました。命をいただいているのだと…。鶏への関わらせ方がおかしいのです。小学校、給食の前に手を合わせることは教えますが、その意味は教えていません。子どもへのお話を通し、ぜひ大人たちにご住職のお考えをお伝えください。、「いのち戴いて、どう生きているのか」ーそれこそが道徳の時間に教えることだと考えます。
加藤宙
2012/07/06 17:58
おなじみの梅ちゃん先生という文字に惹かれてその記事だけを読んで、この記事を今改めて読ませていただきました。難しいことはよく分かりませんが、いいお話を見逃すところでした。
 私は児童館に勤務していて、中学1年生と接することがよくあります。
 彼らの気持ちを少し代弁すれば「感謝して生活している同級生もいて、いい人だと思う。感謝しなければいけないということは分かっているが、不満ばかりが募っている自分にふてくされている。そんなどうしょうもない自分に道徳を施そうとしてくれている先生の気持ちもよく分かる。だけど感謝することが自分にとってなにになるのかよく分からない。」

 それこそここだからいえますが、今勤務している学区では、小学校低学年で20パーセントの子どもが片親家族です。中学生ではもっと増えているのではないでしょうか。叱られると追い込まれ逃げ場がなく、そんな時お寺の掃除でも頼まれれば喜んでやり感謝されることに感謝しそうです。
深山あかね
2012/07/06 20:14
yoshiyoshiさま。
正面向いてサッと獲物を掠め取る。躊躇しませんね。

花てぼ樣
いいですね。そこから切り込んでみましょうかね。

加藤宙樣。
子供って、結構「意味」を知りたがりますよね。ご指摘ありがとうございます。

深山あかね樣。
なるほど「感謝」も一筋縄ではいかないものですね。人間性を抱えつつ、それを越えた世界を感じてくれたらいいのですが・・。
ご指摘に感謝です。合掌
市堀
2012/07/07 16:04

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