再生への旅

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zoom RSS 「食育」再々考・・・われながらクドイな。

<<   作成日時 : 2012/07/08 04:03   >>

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よく噛んで顎疲るゝ小暑かな 玉宗


子供が大人の説教に対してよく口にする言葉に次のようなものがある。「意味わかんねえ〜」 それはおそらく、言葉の向う側にあるものが解らないということなのだろう。「想像できない」といっているのだと思う。

子供って、結構「意味」を知りたがる。それは大人ほど観念優先で生きていない証拠なのだろう。言葉以前、意味以前、観念以前で命しているっていうところか。分別以前の世界と一体で生きている。といった世界へ「分別ある大人」が「食育」と称して「感謝」とか「いのち戴く存在」などと教育する訳だ。

「感謝」「感謝」と周りから云われるまでもなく、子どもは親の生き方を見ていて「感謝」というものを実感しているには違いないのだ。そのような「情緒」は学校教育だけが賄えるものでもなかろうし、「食育」の本筋以前だと私などは捉えている。もっと根本的なものがあるのではないのかな。

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そこでだ、「食育」と切っても切れない「命」の話しをしなければなりません、お坊さんである私としては。 ということで、「生きている意味」を子供たちに先ずと問うてみよう。「わたしは何のために生れて来たのか?」「私が生きている意味は?」といったところから切り込んでいこうと思う。

「存在」の「意味」はあると云えばあるし、無いと云えばない。「意味」とは「後付け」であろう。「そのもの」は「そのもの」であるばかりだ。「ある、ない」といった分別を見事に無視している。「意味以前以後」徹底して「そのもの」であり続ける。「存在」という「意味」さえ「意味」をなさないが如きではないか。

例えば、ここにあるコップ。私にとってそこにある「コップ」とは「喉が渇いて水を飲みたい」といった「意欲」に対応する「入れ物」としての「意味」を持つだろう。私の姿勢が関わっているということ。
さて、「生きている私」「生れて来た私」に「意味」や「目的」はあるのかないのか?「生きている事実」「命の事実」それは「私の意味付け」を越えている。「越えている」とは「そのものである」ということだ。「無意味」なのではない。換言すれば「命」に先行して「意味」があるということではないということ。

で、大事な事はこの先である。

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「生きている」という「事実」の真相。それは「いのち戴いている存在」であるということ。そこまでは子供でも「理解」出来るであろう。その「事実」からどのような「意味」を引き出せるか。それは偏に私の孤独な作業である。自立して生きると云うこと。大人になるということはそういうことではないのか。いつまでも無分別で生きて行けない人間の宿命がそこには横たわっている。そこから目を逸らして生きることは自己欺瞞の最たるものだ。人間もまた脱皮、再生しなければならない。

「生きている意味・目的」それは明らかに、人間一人ひとりが創り出していくものだ。それは様々な「縁・関係性」の中で成し遂げられる「後付け」であり、そして「生きて行く方向性」ともなるであろう。
ここを受け入れることができて、或いはこの辺の事情を分別する事が出来て初めて、「私は私になる為に生れ、生き、死んでいく」と結論付けることが可能となるのではなかろうか。このようなことも経験知から言えることであるが、教育とは「先のものが後から来る者へ教えること」ではないのかな。教える方も、教わる方も自己の立場を失念してはならない。「食育」だけではないが、凡そ「教育」たるものはそのような互換性のものであろうと思っている次第である。


それにしても矢張り、小難しいな。子供は理解するだろうか?しないだろうな。 「意味わかんねえ」と云われそうだ。これじゃ駄目じゃん。元のモクアミっていうんですか・・・。(−−) もそっと、考えねばならんね。というか、もう時間がない。当たって砕けます。










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コメント(5件)

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はなから聴く姿勢を拒否したときにもこんな言葉を奴らは使いますからなぁ。

まひまひの遊び疲れて沈みけり  よし
yoshiyoshi
2012/07/08 04:21
フローレンスからボナセーラ
楽観的かも知れませんが幼子でも自分に一生懸命問い掛けてくれる人には耳を貸す用に思いますが。シンプルに何度も時間をかけるしかないのではと思いますが。とてもいい方なんだと思います。ポチッ。
Florentia55
2012/07/08 06:27
教育とは「問い」と「答え」の間を最長距離で結ぶ営為だと信じています。すぐにわかるようなことを教えても仕方ありません。後で「このことだったのか」と思えるような「種」を蒔けばいいのだと思います。子どもの中にポンと「種」を置いてきて下さい。オープンエンドという終わり方もあるのです。

2012/07/08 14:57
 なるほど。
 勉強になりました。
 生徒の立場も、先生の立場も誰も彼もみんな平等。
 私と同じように、先生のほうが、うなずかれる。
 そんな話はなぜか子どもたちも分かっているのかどうか分かりませんが聞き耳を立てるのです。
 宙さんの「種をまく」これも大切な言葉だと勉強になりました。
深山あかね
2012/07/08 21:44
yoshiyoshi樣。
中学一年生には私の様な生きものは毒薬だったかもしれません。(−−)

Florentia55樣。
そうですね。子供は大人のこころの真偽を見事に見抜きますね。まるで天使か悪魔の所業です。
(^^」

宙樣。
この度は望外のアドバイスをありがとうございました。まったく仰る通りですね。直ぐに結果を求めたがる。促成栽培など人間教育にはないのでしょうね。結局それは道を誤らせるように思えて参りました。合掌

深山あかね樣。
解ることも大事ですが、それ以上に感じることも見逃せませんね。というか、道徳教育においての本当の理解とは言葉の向うにある世界をイメージすることなのでしょうね。そんな感性を呼び起こしてあげたいなと思ったことでした。
市堀
2012/07/10 17:34

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