再生への旅

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zoom RSS 平凡とは何か・再考

<<   作成日時 : 2012/08/01 04:10   >>

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河骨や入水の如く花掲げ 玉宗

衣食足りて礼節を知ると云われる。
それは衣食足りて志を忘れるという人間の愚かさを啓蒙しての言葉なのかもしれない。熱湯に飛び込んだ蛙は慌てて飛び出すが、ぬるま湯に浸かった蛙は間違いなく茹で蛙となってしまうという。人生には確かに生きてゆくことの難儀さがあると云えばある。生存競争は、どのように小奇麗な文明社会となっても生きることの根底に横たわりほくそ笑んでいる。煩悩と覚醒は表裏一体であるかの如くにいのち生きる原動力にさえ見えてくる。

人間は自己存在の危うさを本能的に知っていると思いたい。然しながら現実は安楽な生活に浸り切り、志や礼節や諸行無常を忘れてしまう。忘却、それは恰も神様が気弱な人類に与えた麻薬のようにも思える。四六時中、不安や恐怖や不確定の中で生きることなど堪えられるものではない。どんなに声高に、物の豊かさに溺れる愚かさを指摘しても、ぬるま湯から出ようとしない人間。それはいのちの逞しさなのか、脆弱さなのか。

人類が本当に窮するときがいつか来るだろうと識者は警告する。そのような警告が通じたときの世界とはどうなっているのかと想わないでもない。

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平凡がいいという。
その平凡が平凡であり続ける保証はどこにもなく、また現代の日本人の平凡な生活は、地球という壊れやすい水の惑星での話である。我々の「平凡な日常」は予想外が本領である自然界からの搾取とお互いの都合の関わり合いである社会間の不平等や格差など、危ういバランスの上に成り立っている。その現実を見て見ぬふりをしているお目出度さ、傲慢さ、狡猾さ、無知、人間らしさ。

そのような欲望の織りなす現実の危うさに見切りをつけて生きる事も出来る。窮せざれば通ぜずでは遅すぎる。窮しない、行き詰まらない生き方があるのだろうか。「ある」というのが仏道。
哲学は問い掛けがその本質であり、宗教は答えに生きることがその本質であろう。進歩と退歩。何れにしても人類の進退窮まる日が来るのは間違いない。人類のために諸行無常の理法が猶予される筈もない。それは余りに先の事として、恰も「無いもの」の如くに生きているのが人間であろう。おめでたいことこの上ない所以である。

本来「平凡と非凡」「日常と非日常」などというものはない。生存への思慮、遠慮があるかないか、いのちの真相を見据えて生きる姿勢が問われ試されているのが人生であろう。
「宗教を持たない平凡な現代人」
それは「ぬるま湯に浸かっている蛙」と揶揄されているに等しいのかもしれない。












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コメント(3件)

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夕暮れに兎は居らず蒲の花  よし
yoshiyoshi
2012/08/01 09:06
フローレンスからボンジョルノ
平凡な人が凡人なのかよくわかりません。生きることが答えのひとつである宗教 良いお言葉を頂きました。グラッチェ&ぽち。
Florentia55
2012/08/01 17:35
yoshiyoshi樣。
当たり前のことをしっかり見つめなければなりませんね。

Florentia55樣。
「凡聖」は私が決めることではないのでしょうね。いのちにそんな括りなど本来ある筈もありませんものね。合掌
市堀
2012/08/03 19:57

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