再生への旅

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zoom RSS 諸行無常の約束

<<   作成日時 : 2012/08/15 04:38   >>

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盆過ぎの雲おそろしや名無山 玉宗

どうも、「待つ」ということが苦手である。
せっかちな性格ではあるが、それは人を「待たせる」ことは罪悪であるという強迫観念の裏返しではないのかと自己弁護したくなる。いつの頃からか約束の時間を守らないことが人として最低の行為でもあるように思っているような節がある。そんな私であるから「待つ」ことも「待たせる」ことも忌避したいので、出来れば人と「約束」をしないようにしている。そこには元来が大雑把な性格であることも加担しているかもしれない。あてにならない私をあてにしてほしくないという心理。

そうはいっても仕事柄、葬式や法事で檀家さんとの約束を果たさなければならない。予定時間の三十分前には控室に入る。又、俳句も毎月締切という約束があり欠詠したことがない。というか、俳句そのものが「最短定型詩」という、ある意味、約束の世界である。坐禅の「容」も「自己が自己に落ち着くための約束事」とも云える。「約束」だらけ、「待つ」「待たせる」ことだらけの人の世であろうか。

仏弟子として最も履行しなければならない「約束」は「成仏」。檀家に対しても、私自身に対しても「成仏」の「約束」が基本である。ところで、「成仏」は「待ったなし」というのが宗門の建前であり、本来「成仏」しているのだから「待つ・待たない」という話ではないという見方もあるが、やはりどこかで未だに「成仏を待ち惚け」しているようなところが我々にはないだろうか。

ところで、「待つ」時間のスパンの長さは神様や仏様に敵うものはないのではない。そして、神様や仏様を「待たせる」ことにおいて「人間様」の右に出る者はないのではなかろうか。それにしても、「約束」を遂げることが大事であることは否定しないが、「死」という「一方的な約束事」は中々に受け入れ難いものがあるのも正直な思いである。そんな一方的な「約束」を果たさなければならない義理もないのだが・・・否、おそらく前世今世で私の窺い知れない神仏の「恩」を受けているのだろう。「死」は「ご褒美」のようにさえ思えてくる。義理は果たさなければならない。それもこれも諸行無常の約束が前提として控えていることからの展開である。

ところで、わが夫人は、待つことも待たせることも楽しんでいるとしか思えない節が数々ある。世の中には神様、仏様から戴いた「約束」を有難がる人間もいるのである。せっかく戴いた神様からの「待ち時間とお待たせ時間」。楽しまなくてどうしよう。本人はどう捉えているのか解らないが、夫人を見ている限りそう感じる。「待つ」とか「待たせる」ということを上手に過ごす知恵があるようだ。羨ましいと思う。








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内 容 ニックネーム/日時
爺婆も大方居らず終戦忌   よし
yoshiyoshi
2012/08/15 07:33

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