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zoom RSS 俳句のメルトダウン・再考

<<   作成日時 : 2012/08/02 04:25   >>

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絶望に何かが足らず夕涼み 玉宗


震災以後、俳句は被災者を励ませるか、被災者に寄り添えるか、被災地を元気づけることができるか、というような設問やコピーが耳目に飛び込んでくることがよくあった。所謂「震災俳句」に限ったことではないが、俳句大会などの選句をしていると、作品の似たり寄ったりに閉口することがよくある。それにしても俳人とは徹頭徹尾自分の世界に拘るものだと感心する。そして、それはそれでいいのだが、大凡は、俳人特有の狭い、限られた世界の中での自己満足的表現世界であり、いったいどこのだれが被災者を元気づけようなどと言い出したのだろうかと首を傾げたくなるような思いが捨て切れない。

実作者として多くの俳句作品に接していると、俳句は俳句をやっている者同士だけが共感し共鳴できる世界でもあることを痛感する。思えばそれはどんな文芸でも避けられない共通の現実で、短詩形だけに限ったことではない極めて当たり前の前提であるのだろう。被災者といえども俳句を嗜む方だけが、それに反応するであろうし、それでいいのだろうとも思う。一連のキャンペーンも被災地の俳人を元気づけようということなのか。文芸を介しない人に寄り添い、励ます俳句というものが存在すること自体が無意味なのかもしれない。

俳句が芸事の一面を持ち合わせていることを否定はしない。しかし、それがすべてだと言いきるには語るに落ちるというもではないか。俳句は芸という習い事の側面とともに、文学性という軸足も持ち合わせているのではなかろうか。ここで文学性とは自己の命の深さに拘り、切り込む可能性のこととしよう。

俳句は芸であり、俳句は文学でもある。それにしても、俳句界という限られた社会性と共に、短詩形ゆえに作者の生きる姿勢が如実に反映するという不思議さに手を拱いている私がいる。人として被災者に寄り添いたいという社会性も、俳人として芸の修練に浮き身を窶す精進も、表現の可能性を文学性と云う自己矛盾の世界に賭けることも、共に自己実現への歩みでありたい。吾ながらなんと欲張りなことであろうかと思わないではない。

被災者を励まし癒すのは作品だろうか、俳人という組織力だろうか、俳人という生き方だろうか。文芸は何処までも「個人」に寄り添うものだ。不特定多数の被災者に寄り添う心切なるものがあるというなら、俳人であることに拘らずともよかろう。そうでないと云うのならば、その辺を自己の問題として解決もせずして、被災者に寄り添う俳句などと戯けたことを言うもんではない。俳人の身のほど知らずにも程があるというものだ。

芸と文学性、その軸足がぶれ一方に偏したとき、俳句は俳句でなくなっている。非常時には俳句も又「メルトダウン」を起しているのかもしれない。そして恐らくそれでいいのであろう。







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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
かがんぼやうごめく脚を置き去りに  よし
yoshiyoshi
2012/08/02 04:32
yoshiyoshi樣。
枝葉末節に目を奪われている様な記事になってしまいましたかね?(笑)

市堀
2012/08/03 19:58

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