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zoom RSS 「自己に立ち返る」帰単、どうぞ宜しう

<<   作成日時 : 2012/08/18 04:47   >>

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志す旅の半ばや雲の峰 玉宗


お盆の行事も済み弟子の孝宗も僧堂へ戻る日となった。
僧堂では師寮寺へ帰省することを「他出」とか「暫暇」と呼称し、僧堂へ戻ることを「帰単」という。「単」とは雲水に与えられた坐禅堂に於ける自己の居所「畳み一枚分」の広さのことである。「単」で坐禅し、起き臥し、食事をする。修行者の自己の天地と言ってよい。この「単」に於ける功夫を以って一事が万事に処して辦道精進していく。

出世間である僧堂でも行持の他に様々な出会いや出来事が繰り返される日常である。生身の人間達が合い寄って自律他律の日々を送っている。それらすべてが自己を観照し、返照し、学び取り、学び去る「出会い」そのもの。我見などに執着していては話しにならない。坐禅の功夫と同様に、一本筋の通った志がなければ勤まるものでもないのだ。

右に揺れず、左に揺れず、背筋真っ直ぐ、目に映るものは映るままに、耳に聞こえるものは聞こえるままに、教外別伝という沈黙を守り、感性を開放しつつ捉われることなく、「今」をそのまま受け入れ、そして受け流す。それだけのことだ。坐禅も読経も作務も行鉢も托鉢も人との出会いも、ものとの出会いも、生も死も、悟りも迷いも、それの繰り返しである。

空っぽになった自己に天地は惜しみなく何かを満たし、降り注ぎ、覚醒させてくれる。仏弟子が一人前になるということはそのような功夫が身につき、こころにつくということだろう。

石の上にも三年。黙って十年坐れと諭す先人は多い。それもこれも「自己を空っぽにする」という禅の面目を授けんがためである。どのような道でも一人前になるには似たような自己を忘れる功夫がなされているに違いない。自己を深めるための修行である。その先には必ず広やかな世界が展開してくる。それを信じてほしい。

「帰単」、それは誰もが本来的に立ち帰らなければならない、逃げも隠れも出来ないいのちの現場である。







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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
鶏頭や子等去りぬれば背伸びかな  よし
yoshiyoshi
2012/08/18 07:18
 孝宗さまがお帰りになるようですね。
忙しいお盆に共に過ごせて、奥方様もさぞ嬉しかったことと思います。
子や孫は成長すればするほどに、親や家族から離れ自立して行くものと考えていましたが、其れが実際になりました。
孫育てに力添えしながら暮らしておりましたが、下が高校3年、上はご子息様より1歳下でしようか。自分の行く道を求め、祖父母の所へ来ることもなくなりました。
寂しさを何処で収めたら、自分が最も自分らしく生きられるのかと、今頃になり自らの自立と自律心を確立しようと試みていますが、思うように行きません。
 孤独を上手くコントロールして、家族に依存せずに生きて行きたいと思ってはいるのですが・・・
此方に伺いますと、時にはユーモアもあり、色々考えさせられます。
 御仏に帰依なさる方の覚悟が見える時と、何処にも居そうな人間という存在の面白さ、失礼ながら奥方様が素晴らしいと、いつも感じております。
みどり
2012/08/18 22:04
よし樣、みどり様。
コメントありがとうございます。
孝宗も安居中には色々あったようですが、挫けないで今日まで頑張っているようです。どこに出しても恥ずかしくないお坊さんになってくれればと、それだけを願っているところです。
合掌。
市堀
2012/08/21 21:33

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