再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS お坊さんしたっていいじゃないか、にんげんだもの。

<<   作成日時 : 2012/08/19 04:13   >>

トラックバック 0 / コメント 1

画像


秋蝉の死に物狂ひ胸に止まる 玉宗

つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの

詩人にして書家の故・相田みつを氏の言葉である。相田氏の詳細な生涯は存知していないが、死後、その作品を御長子が美術館などに所蔵し、著作権管理をしているらしい。
私は以前からこの言葉にどこか引っかかるものがあることを誤魔化せない。それは「人間らしさ」への甘え、免罪符を強要しているような響きを感じてしまうからだ。おそらく、それは私の個人的偏見・感受性によるものである。もっと言えば、そんなことは言わずもがなで、殊更に事挙げするに賛同しかねるといったところか。「人間らしさへの甘え」それが取りも直さず、私の中に陰に陽に巣食っていることを私自身が厭というほど知っている。

因みに、この言葉は以下に続くらしい。

くるしいことだってあるさ 人間だもの
まようときだってあるさ 凡夫だもの
あやまちだってあるよ おれだもの

愚痴をこぼしたっていいがな
弱音をはいたっていいがな 人間だもの
たまには涙をみせたっていいがな 生きているんだもの
 

それは、そうだ。私はそれを否定しない。否定はしないがそこに胡坐を掻いて生きていこう、という逞しさを持ち合わせていないのだ。私は人間らしさを忌避し、見切って出家したようなところがある。端からは、無理をして、痩せ我慢をして生きているように映っていることであろうと思う。柄でもないのにお坊さんなんかして、いい気なもんだ。というような声が聞こえないこともない。

然しながら、私にはどういうわけか「人間らしさ」に流されるのが我慢ならないというところがある。お坊さんが在家より偉いとかどうだとかという問題提起ではさらさらなく、視座を換えて言えば、在家のままでまともに生きて行く自信がないのだ。その実、生身の私はご覧の通りのいい加減なお坊さんであり、言う事と、している事と、理想している事との乖離が甚だしく、その矛盾力の凄さたるや、神様に見放されたるが如きである。お坊さんであることに胡坐を掻いているのかもしれないが、社会人として「落ちこぼれ」であると見放されてもいい、という覚悟もある。

それにしてもである。「おまえはどっちを向いて生きて行くんだい?」と問われて、痩せ我慢をしてでも「仏さんの方を向いて」と言いたい。変な言い方だが、お坊さんであることで、なんとか人並に、まともに生きていられる、といった節が大いにあるのだ。

お坊さんをしたっていいじゃないか。痩せ我慢したっていいじゃないか。人間だもの。

これも又、人の世の実相である、というより、人間らしさの一側面であろうと思っている。
相田みつを氏は決して「人間らしさ」に流されて生きた方ではない。精いっぱい努力し、研鑽し、現実に向き合い、七転八倒した人生であっただろう。その中から生まれた詩作品なのであり、魂の言葉なのである。彼自身も又、人の見えないところで痩せ我慢をし、自己の「人間らしさ」と格闘していたに違いない。だからこそ、彼の作品は胸に響き、心に沁みるのであろうと思う。  (以前の記事をタイトルを替え、内容を修正加筆しました。)







ランキング応援クリック
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
ここだけの話し、相田みつを氏は好きじゃない。
ファンの方ごめんなさい。

この夜も星落ちてまた生まれ  よし

yoshiyoshi
2012/08/19 04:24

コメントする help

ニックネーム
本 文
お坊さんしたっていいじゃないか、にんげんだもの。 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる