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zoom RSS こんな生き方もあるかな・その1「馬の耳に念仏的な・・・」

<<   作成日時 : 2012/08/20 04:27   >>

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土手南瓜夕陽を浴びて憮然たり 玉宗

一般的に「馬の耳に念仏」と言えば、聞こうとしない人にいくら注意してもなんの効き目もないことといった意味合いに取られている。聞く耳を持たない人間。聞きわけが出来ない人間。有難い念仏も説教も「聞く耳」「聞こうとする意欲」がなければ意味がない。
縁なき衆生は度し難しとは古来の言であるが、果たして、その程度の人間観察で絶望していいものなのかと以前から思っている。

「馬の耳」というものも禅的に捉えてみれば理想的な境地であると私は思っている。「私は貝になりたい」といったフレーズがあったが、出来ることなら「私は馬の耳を持ちたい」。
何故か?!

私という存在は眼耳鼻舌身意の六感を持ち合わせている命の反応体であるが、人生の経験則からみて、外から入ってくるものに命が真っ直ぐ反応しないところに人間らしさの、まさのその厄介さが同居していると言わざるを得ない代物でもある。人間らしさとは何か、それは様々な感性が「脳細胞」という経路を経ていることで、それこそが万物の霊長たる所以であると教えられてきたと言ってもいいだろう。文化、文明という構築物も畢竟そのような経路の為せる業であろう。所謂「進歩観」というもの。それを否定はしないし、しようもない。命の一側面、一領域の事実であることを認めるに吝かではない。

ところで、人類の悲喜劇は「進歩観」だけでは片付かないからだという警告も又、古からの遺産ではなかろうか。「進歩観」の対極に、或いは腹違いの兄弟のように「退歩観」といったものがある。何かを外に積み上げるのではなく、どこまでも自己の命の深さ、内側に切り込む存在の仕方といったもの。

耳は私が分別する以前に「聞こえている」。眼は私が意味付けする以前に「見えている」。五感はすべて私の分別や意味付けや見識や意見や理屈や感想や好悪や選択や着色以前の反応している筈だ。これは事実であるというのが仏法である。命は私が生れたという分別以前に「現成」し、命は私が死ぬという絶望以前に「収束、或いは雲散する」に違いない。

禅的生き方とは、生きながら「分別以前のいのち」を戴き、第一義として諸行無常することを言うのだと思っている。禅僧の素っ気なさ、ぶっきら棒さ、木偶の坊さ、木に鼻をくくったあり様の内実には「木人歌い、石女立って舞う」といったいのちの素なる輝き、柔軟さ、躍動感、解放感が予定されている。

「馬の耳」それは、聞こうと構えるのでもなく、先見を以って耳をそばだてるのでもなく、如何にも人間らしからぬ「馬のごとき、教外別伝の声」を聞き入れ、そして聞き流す、といった拘りのない、無分別の智が期待されているのである。「馬の耳」はその一つの象徴である。「糸瓜の耳」でもいい、「南瓜の耳」でもいいのである。心物一如とも言う。石が無情ならば、心も無情である。馬の耳が諸行無常ならば念仏も諸行無常であろう。生が四大仮和合なら「馬の耳」も四大仮和合である。私が仏道ならば私の耳は「馬の耳」であらねばならない。

つまり、禅的生き方には煩悩に惑わされず、いのち真っ直ぐ生きて行こうという姿勢があるということだ。いのちに有縁も無縁もない。ときに「馬の耳」だったり、ときに「人の耳」だったりするだけだろう。度し難いのは誰であるか?他人事ではないのである。





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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
朝散歩引菜貰うて家路かな  よし
yoshiyoshi
2012/08/20 04:32

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